ゾーハル 大聖会の書 41

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第41章 小さな顔の個別化した四肢、特に腕について


997. こうして女と男の両者は共に繋がっている。だが、腕と四肢ではこれらは分離している。


998. 男は右腕であり、女は左腕である。


999. 最初の腕(別版では聖なる腕)では、3つの部分*1は共に結び付いている。


1000. 2つの腕は完成されたものであり、右腕の3つの部分、左腕の3つの部分は完成している。


1001. 右腕の3つの部分は、左腕の3つの部分と照応する。


1002. それゆえ、片方のみを記すとしよう。腕では右側のみを記すとしよう。出エジプト記 第15章6節では、これは「主(テトラグラマトン)よ、あなたの右の手は力をもって栄光にかがやく」と呼ばれている。


1003. それゆえ、これは「テトラグラマトンの右の手」と呼ばれる。そして、父祖らの3つの分割*2が、それらの部分を占めている。


1004. そして汝は「また、これらは頭蓋骨の3つの空洞の中にも(象徴的に)見い出せる」と言うかもしれない。


1005. 私が学んだ事によると、これらの3つの部分は右腕で共に結ばれているが、これら3つの(それらの概念)全ては(小さな顔の)体全体に拡張して繋がっている。


1006. それゆえ、ダヴィデ王はこの方を望み、詩篇 第110篇1節で「わたしの右に座せよ」と述べている。この方は父祖らと関連づけられて、完全な玉座に座る。


1007. それゆえ、詩篇 第118篇22節で「家造りらの捨てた石」と書かれている。なぜなら、この方は右側に座るからである。


1008. これについては、ダニエル書 第12章13節に「あなたは休みに入り、我が右手の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」と書かれている*3


1009. それは「王との友誼を得る価値ある者は、王がその右手を伸ばして、その右手を彼に置くのを喜ぶ」と述べるようなものである。


1010. だが、この方が座る時、特定の部分はその右手へと伸ばされるが、腕の先に述べた3つの部分は手へと拡張されない(別版では、この方が座る時、その部分は拡張せずに、腕は伸ばされずにそのままにある)。


1011. だが、この世界で罪びとらが刺激され、広がっていったら、他の(左腕の)3つの部分が刺激され、それらは厳しい裁きであり、その腕は伸ばされる。


1012. そして、この腕が伸ばされると、右腕が伸ばされるようなものである。だが、これは「テトラグラマトンの腕」と呼ばれる。列王記上 第8章42節に「それは彼らがあなた(テトラグラマトン)の大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです」と書かれているようにである。


1013. これら(左腕の)3つの部分が、それら(右腕の)3つの部分に含まれるならば、これら全ては右腕と呼ばれ、裁きは慈悲へと変わる。


1014. これについては、出エジプト記 第15章6節に「主(テトラグラマトン)よ、あなたの右の手は力をもって栄光に輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く」と書かれている。これらの中で慈悲が刺激されているからである。


1015. また私が学んだ事によると、この右手はテトラグラマトンの腕と呼ばれる腕から出る350,000の無数(の諸世界)と繋がっている(別版では、これは右手と呼ばれ、185,000の無数(の諸世界)と繋がっている)。


1016. それゆえ、いずれの側も(すなわち、右腕でも左腕でも)腕である。なぜなら、これはティフェレトのいずれの側(でもある)と言われるからだ*4


1017. それはイザヤ書 第63章12節に「栄光(ティフェレト)の腕をモーセの右に行かせ」と書かれているからである。


1018. この文のモーセの右という表現は、右手を示している。だがここでの「腕(単数形)」は左を示している。「ティフェレトの腕」と書かれていて、それは両側(右と左)いずれも示しているからだ。


1019. さらに私が学んだ事によると、左腕には450の盾の主らが結び付いていて*5、これらは(左手の)分離された指らに結び付いている。


1020. そして、この単独の指らだけで、10,000の盾の主らを見い出せる。この手全体でどれだけ多くいるであろうか。


1021. そして、この右手は聖なる助けと呼ばれ、これは右腕から、(その)3つの部分から生まれる。


1022. そして、これは右手と呼ばれるものの、助けである。サムエル記下 第3章12節に「私はあなたに(手を)力添えして」と書かれているからである。


1023. この中には1,004の無数と508,000の主らがおり、あらゆる世界の助け手である*6。これらはテトラグラマトンの上位の手や、テトラグラマトンの低位の手と呼ばれる。


1024. いずれもテトラグラマトンの手と呼ばれるものの、(時には)左手*7のもの(を意図して述べている)と理解すべきである。これが慈悲深いものだったとしたら、それはテトラグラマトンの右手と呼ばれるからである。そして、この手は腕の中に含まれ、助けのためにあり、手と呼ばれる。一方で反対の場合は、テトラグラマトンの低位の手である(と理解すべきである)。


1025. 私が学んだ事によると、厳しい裁きが刺激されると、この世界へと降りてくる。これについては、詩篇 第25篇14節に「主の奥義*8は主を畏れる者のためにあり」と書かれている。


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↑ 明かされたカバラ


*1 マサース注。肩から肘まで、肘から手首まで、手首から指先までの、腕の3つの自然な分割である。ここで部分と訳されたקשרין(QShRIN)は、適切に述べるならば「領域」である。
*2 マサース注。この父祖という言葉の原文ではאבהתא(ABHThA、エバハタ)で、このコンテキストによれば、単純に「父ら」であり、より強調すると「父祖ら」となる。この後者が、この文では用いられている。3つの父祖らとは、アブラハム、イサク、ヤコブである。エバラタはヤコブの12人の子らについては用いられないからである。
*3 マサース注。この「我が右手の終り」とは、通常は「定められた日の終り」と訳されている。この翻訳の差は単純に、ימין(IMIN)の同じ綴りに対して、打った点の違いである。
*4 マサース注。序説にあるセフィロトの図などを参照せよ。ここではティフェレトは中央に位置している。
*5 マサース注。450 = תן(ThN、タン)であり、蛇あるいは竜の語源である。この語源から作られたであろうレビアタンと比較せよ。
*6 マサース注。これはカバラの諸界を意味する(序説での四世界についてなどを参照せよ)。
*7 マサース注。小さな顔では、常に右と左、慈悲と正義があるからである。一方で広大な顔では、全てが「右」と述べられている。だが、小さな顔は発現したものであり、広大な顔は隠されている。
*8 邦訳聖書では親しみと訳されている。