ゾーハル 隠された神秘の書 1

ページ名:ゾーハル 隠された神秘の書 1

ספרא דצניעותא

(セフェラ デツェニオウタ)


隠された神秘の書



第1章


1. 言い伝えによると、「隠された神秘の書」は、天秤の均衡の書である。

(マサース解説。「デツェニオウタ」という言葉は翻訳が難しい。だが、この意味は「隠された神秘」という言葉が最も上手く現していると思う。私は序説の第29節で「均衡」と「天秤」のカバラの意味合いについて説明している。)


2. また、言い伝えによると、均衡の存在する前に、顔と顔の無きものを見た。

(2つの顔、広大な顔(マクロプロソプス)と小さな顔(ミクロプロソプス)については、序説の第42、47、64、65、67、73、77節を参照せよ)


3. そして古き時代の王達は死に、彼らの王冠はもはや見つけられず、地は荒れ果てた。

(この「古き時代の王達」は、「エドムの王達」と同じ意味である。すなわち、「アンバランスの力」の象徴であり、ゾーハルにおける、この宇宙の形成の前段階である。私はこれらを序説の第41と56節で説明している。これと、すぐ次に続く部分は、否定的存在から肯定的存在への神のゆるやかな発展を追っているように思える。ここの文章は神はその原初の否定的形態から顕現したばかりの時を記している。ゆえに、カバラの考えでは、宇宙は神が纏う衣である。神はそれら全てを含んでいるのみならず、全ては自らでもある。そしてその中の全てに存在する)


4. その頭(これは理解不能な存在である)が全ての欲望により欲望し(אין סוף(AIN SVP、アイン ソフ)、無限と限界無きものより進み)、誉れの衣に現れ、交流した。

(この頭、無限にして限界無きもの、アイン ソフより進んできたと記されているのは、第1のセフィラ、王冠ケテルであり、またの名をアリク アンピン、マクロプロソプス、広大な顔と呼ばれる。この第1のセフィラから他の9つは流出し、造り出された。私はこれを序説の第38から57節のセフィロトに関する部分で説明している)


5. この均衡は、老いたる者の中の否定的に存在する領域に留まる。

(この表現は、他の9つのセフィロト(その3つ組の形成により均衡がなされる)は、まだ第1のセフィラからは現れていないが、いずれ育つ樹が種の中にあるように、その中に存在するのを意味する。この「老いたる者」とは、第1のセフィラ、王冠ケテルを意味する。この名称の中の1つはアティカ、老いたる者である。このセフィラより、私が先に記したように、否定的存在の概念はアインへ向かって従属している)


6. ゆえに、これらの均衡の諸力の存在はまだ知覚出来ない。

(これらの諸力とは他の9つのセフィロトであり、第1のセフィラの諸力としてあった。これらが均衡を得たら、力の相互関係を通じて肯定的な存在となる。次の2つの節はこれらの均衡がまだ否定的な存在、あるいは概念に留まっている事を説明する)


7. その形態の中で(老いたる者の形態の中で)均衡は存在する。それは理解出来ず見る事も出来ない。

(この均衡の最初の概念は老いたる者(第1のセフィラ、王冠ケテル)である。これは限界無き方から進んできた限界無き光の最初の潜在的な限界だからである。すなわち、ケテルの中心点は均衡である。天秤がまだ存在しないからである。2つの対立する極によってバランスの天秤は形成されるが、まだそこまでは開発されていない。我々はこれらの2つの用語、均衡と天秤を混同しないようにしなくてはならない。天秤は2つの天秤の皿(対立する力)が含まれるが、均衡は天秤の棹の中心点である)


8. この点にて、これらは上昇してきて、この点にて、これらは上昇する――これらは無き者にして、在る者にして、在らねばならぬ者。

(この点にて(ケテルの均衡の中で)、これらは上昇してきて(肯定的存在となるまで進歩して)、この点にて(均衡の中で)これらは上昇する(これらの第1の存在に至る)。これら(セフィロト)は無き者(否定性から脱して)、在る者(肯定的存在となり)、在らねばならぬ者(永遠に存在する。これらは均衡する諸力だからである)。この3つ組の表現「無き者、在る者、在らねばならぬ者」は、セフィロトの3つの3つ組も表す(序説の第52、64、65、66節を参照))


9. 理解出来ない頭は秘中の秘である。

(この頭とはマクロプロソプス、広大な顔であり、老いたる者、王冠ケテルと同じ存在である。この中に、他の諸力が隠されている)


10. 頭蓋骨に似たように形成され準備され、水晶の露で満たされた。

(水晶の露とは、限界無き者から導かれた創造性の光、あるいはאור(AVR、アウル)である。マントヴァ写本では頭蓋骨を広大な顔の最初の、水晶の露を2番目の形態としている)


11. その肌は他者のもので清澄に固まっている。


12. (その髪は)最も良き羊毛のよう。天秤の均衡を漂う。

(エーテルは清澄で彼の栄光の光明である。髪の毛は白――すなわち羊毛のように汚れが無い――物質や殻がまだ無いのを表す。マントヴァ写本ではこのエーテルを第3の形態として、髪を第4にし、後者をセフィラ ネツァフ、勝利と見做している)


13. (その額は)低位の諸力の祈りを通じて発現する慈悲深き中の慈悲である。

(至高の慈悲は、それらの性質、諸力、権能を、低いセフィラ(低位の諸力)へと送る。各セフィラは受け取ったものを即座に次のセフィラへと送るのを思い起こす必要がある。それゆえ各セフィラは先任者に対しては女性、受容的で、次の者に対しては男性的、能動的と言われる(序説 第43と51節参照)。マントヴァ写本は、これを第5の形態と呼び、第9のセフィラ、イェソド、基底と見做していた)


14. その目は観察し続けるため、常に開き、眠る事は無い。そして低位のものの出現は、高位の光の相に従う。

(目が閉じられる(セフィロトから神の方向付けられた概念が抽象化される)と、その主動因が退くので世界全体は消え去るだろう。低位のもの(9つのセフィロト)の出現(進歩)は高位の光(ケテル、第1のセフィラ)の相(支配する考え)に従う(従属する)からである。マントヴァ写本では、これを広大な顔の第6の形態と名付け、第4の形態の場合と同様に、セフィラ ネツァフ、勝利の主要な概念を表すとした。)


15. この(顔の)中の2つの鼻の孔は力強き回廊のようで、ここで彼の霊は全て飛び出る。

(マントヴァ写本では、これを第7の形態に加えている。これはMLKVTh、マルクト、王国、神の第10の流出、セフィラである。ここにある創造の霊は、「命の息」である)


16. (それゆえ、神の法が始まったとき(創世記の始まりで))בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ(BRAShITh BRA ALHIM ATh HShMIM VATh HARTz、ベラシート バラ エロヒム アツ ハシャマイム ヴェエッツ ハレツ)、「始まりにおいて神は天と地の形を造った」(この意味は、小さな顔の6つの数の表現である6人の仲間が造られた――すなわち、彼の右腕として慈悲が、左腕として峻厳が、体として美が、右足として勝利が、左足として栄光が、性器として基礎が造られた)ここではבראשית(BRAShITh、ベラシート)、「始まりにおいて」ではなく、これはברא שית(BRA ShITh、ベラ シート)、「彼はその6つを造り出した」と読めよう。低位のもの全ては、これらに従属する(特に、小路の最底辺にいる王妃、小さな顔の花嫁と、低位の3つの世界全てである)。

(セフェラ デツェニオウタが従っている観点では、創世記の始まりは、世界の創造のみならず、神の発展でもあり、神の概念の力の外的で物質的な表現としての世界と捉えている。小さな顔は広大な顔の反映であり、広大な顔が6つの主要な称号があるように、小さな顔も6つのセフィラで構成されている(序説 第42、47、77節参照)。שית(ShITh、シート)はヘブライ語のשש(ShSh、シェシュ、6)のカルデア語での対応する言葉である。そして王妃はマルクト、第10のセフィラであり、3つの低位の世界とは、ビナー界、イェツィラー界、アシヤー界である。序説 第57-60節参照。)


17. そして尊き中の尊き御方は、頭蓋骨の第7の形態から吊るされる(これは尊き老いたる者の髭で13の部位に分割されている)。

(老いたる者とは、私が先に述べたように第1のセフィラ、広大な顔の事である。髭――頭の象徴的な表現の継続として――は13の部位に分割されている。これは、ゲマトリア(序説 第11節参照)により、統一を表していると読める。אחד(AChD、エハド、統一)はその数の値が13と導かれるからである)


18. そして第2の地は未だ評価されていない(すなわち、修復された世界の王国、他では小さな顔の花嫁と呼ばれるものは、6つの仲間らが創造されたと言われる時にはまだ評価されていない。そうでなければ、創世記 第4章2節は違った方法で言われているだろう。「そして地は」の地は、最初に記されたものとして理解してはならない。最初のは修復された世界の王国と理解し、第2のは破壊された世界の王国である)、そしてこれは他でも同様である。

(破壊された世界の王国とは、アンバランスの力のものである(序説 第41と56節、また本章3節の注記を参照)。これはセフィロトの発展が起きる前の時期を指している。それゆえ、エドムの王達に帰さなくてはならない)


19. そして、それは呪われた地から出てきた。創世記 第5章29節に「主が呪われた地より」と書かれているようにである(この意味は、この修復された世界の王国は破壊された世界の王国から造られた。ここにて7人の王達は死に、彼らの持ち物は壊された。また、破壊された世界の王国から進んできた、この世界の説明は、別の場所で行っている)。

(これらの7人の王達とは、第3節で述べたエドムの王達である)


20. それは形無く、虚無であり、深淵の面を闇が包んでいた。そしてエロヒムの霊はこの水の表面を震わせた。この13は(ヘブライ版の創世記の「それは形無く」から「震わせた」までは13の言葉がある)、尊き中の尊き者(これは、広大な顔の髭、第1の形成された頭である)の13の形態から来ている。

(先に記したとおり、13の数は統一を表す。「隠された神秘の書」の著者はヘブライ文書の言葉の数と順番は、特定の神の形態を表すと主張する。「深淵の面」と「水の面」は、広大な顔と小さな顔の直接的な類似である。この類推により、「深き(深淵からの)面」はアイン ソフ、限界無き方から造られた顔となる。すなわち、第1のセフィラ、王冠ケテルである)


21. 6,000年間は最初の6に帰する。これは賢者が語ってきた事。世界は6,000年間続こう。そして、小さな顔の6の数からそれを理解しよう。またこの考えは6つの以下の言葉から導かれよう。ויאמר אלהים יהי אור ויהי אור(VIAMR ALHIM IHI AVR VIHI AVR、ヴァヨメル エロヒム イェヒ オウル ヴェエヒ オウル、「そしてエロヒムは言った。光あれ。かくして光があった」)。

(他ではあまり使われていない数の解釈である。1桁の数は神の事柄を表し、10桁の数は天の事柄であり、100桁の数は地上の事柄で、1,000桁の数は未来を表す。ゆえに、「6,000年間」は6つの最初の言葉から導かれる。また、それより小さな顔が形成された6つのセフィロトも表すと言われる。そのため6が千倍されるこの概念には、未来の時代の界の数を象徴している)


22. 第7(1,000年間と第7の空間、すなわち王国である)、上にある1つのものは単独にして強力である――(すなわち、6つの仲間らは慈悲と裁きを意味するが、第7のものは単独で裁きと峻厳を兼ねる)。そして全体は荒れ果てている(すなわち、מלכות(MLKVTh、マルクト、王国)は至高の諸力の中では聖域の対型であり、これが破壊されると、シェキナー、王国自身も逃れる)。それは12時間である(ヘブライでは、これらの逃れる期間全ては1日の昼のうちに含まれる)。聖書に「それは形無く虚無であり」と書かれているようにである(この言葉「形無き」から「面が」までは、ヘブライ語の創世記では12の言葉がある)。

(先と同じ方法により、1,000年間は第7の言葉から演繹される。ここにある第7の空間とはマルクト、王国、あるいは王妃であり、これと6つの小さな顔が合わさって、セフィロトの低位の7つを作る(さらに、慈悲と峻厳のバランスの概念については、序説 第77節を参照))


23. 第13(すなわち、המים(HMIM、ハミム、水の)、これは13番目の言葉である)はこれら(下にあるものと同様に上の聖域もである)から慈悲(水は慈悲の測りで象徴されるからである。これを通じて裁きと刑罰は和らげられる)を通じて起き上がり、前のように新たなものとなる(6つの仲間が挙げられたように、新たに6つの言葉が続く)。これらの6つは続き、固く立つ(これらは小さな顔の仲間らであり、彼の花嫁では無い。そしてこれらより帰還がある)。なぜなら、これはברא(BRA、ベラ)、「創造された」と書かれる(これには継続性の意味合いがある)からである。そして、これはהיתה(HIThH、ハイータ)、「それは存在した」とも書かれる(これもまた、継続性の言葉であり、完了形ではない)。これは大いなる真理である(それゆえ簡潔に言うと、王国は消し去られてはいない。もっともそれは形無く虚無かもしれないが、そのエッセンスは残されている)。

(慈悲と裁きは対立しており、裁きの面からはその処刑、すなわち破壊が来る)


24. そして形無き、虚無、闇の終わり(すなわち、イザヤ書 第2章11節の「捕囚の終わりには、この述べた事が起きよう」)には、テトラグラマトンのみが、その日(すなわちメシアの到来する時)には高められよう。

(テトラグラマトン(序説 第67節を参照せよ)は10のセフィロト全体を含み、結果としてそれらのバランスの取れた力である3つの3つ組も表現する。そのため、テトラグラマトンが現れるならば、形無き、虚無、闇は消え去り、形在り、満たされた、光に取って代わられる)


25. だが、掘削の中の掘削もある(掘削とは入れ物であり、洞窟のように中が空となったものである。そのため、全ての入れ物は上位者に対して低位であり、それらの間でも「殻」は最後の場所を保持しており、それについて、ここでは記している)。その下には、巨大な蛇の形をしたものが広がっている(この蛇について、「王の谷」の著者は、「殻の論文」でこう述べている。「入れ物の破片は、創造あるいは形成、活動の世界へと落ちており、そこにて外側から存在する。そして、これらは冒涜者と呼ばれるものへの裁きとより一致しており、聖なる場所と不明瞭な場所の中間に住んでいる。そして、その頭は海の中にいる大竜の形をし、海竜であるが、地上のものよりも危険ではない。そしてこの竜はその頂上(あるいは性器)より去勢されており、そのパートナーと共に抑圧され続けている。そして、これらから、400の望ましい世界が形成されている。そしてこの竜は、影響力を受け取るために、その頭に(クジラのように)鼻の孔があり、この竜の中には他の全ての竜らも含まれる。これらについて、詩篇 第74篇13節では「主は水の上の竜の頭を砕かれた」と述べている。そしてこれにて全ての殻の概念、普遍的な形態が理解され、この蛇の動き、右から、左から、両方から、によって王妃の7つの低位の流出がもたらされる)。

(セフィラの掘削あるいは入れ物は、直上のものからの上位の影響力を受け取る性質である。そのため、各セフィラは受け取るのと転移させる両方の質がある。それにより、セフィラが存在する4つの世界のそれぞれで質は伝えられていくが、その光は徐々に失われていく。「殻」クリポトはデーモンらであり、それらからも再び歪められ逆向きにされたセフィロトが形成される。ここで記されている大竜は、明らかにヨブ記にあるレヴィアタンと同一のものである。この竜は裁きの執行者、求心性の力である。この古き蛇は常に楽園へと侵入しようと努める。最後に、より通俗的な意味合いでは、この竜はサタン、悪魔、告発者である。最も重要なカバラの書、セフェル イェツィラーでは、これはתלי(ThLI、タリ、竜)と呼ばれている。そしてゲマトリアの技法を使うと、ThLI = 400 + 30 + 10 = 440であり、我々が「その頂上より抑圧する」、すなわち最初の文字の ת(Th、タウ)、400を取り除くならば、残ったのはלי(LI) = 40 = מ(M、メム、水)となる。「400の望ましい世界」は、ת(Th)の数値であり、物質界でのテトラグラマトンの力を意味する(先の21節での注記を参照)。この「セフェル デツェニオウタ」には多くの錬金術の象徴が含まれている。王妃の「7つの低位の流出」は、7つの低位のセフィロト――すなわち、ヘセド、ゲブラー、ティフェレト、ネツァフ、ホド、イェソド、マルクトであり、あるいは小さな顔とその花嫁、王と王妃である。殻「クリポト」は、悪霊らである)


26. その尾はその頭の中にあり(すなわち、竜はその尾を自らの口の中に保持し、それにより円を形成する。ゆえに、この竜は聖なる場所を取り囲むと言われる)この竜は、その頭を肩の背後へと運び(すなわち、この竜は小さな顔の花嫁の背後で頭を上げる。ここは最も厳しい裁きの場である)、嫌われる(この竜は極端な裁きと厳格さの存在だからである。怒りは、この形の属性である)。竜は観察し(すなわち、聖なる場所へと入る方法を探し求める)、そして隠される(罠を置くようにである。この竜は自らを低位の諸世界に徐々に入り込んでいるので、それらの世界の住人の犯した罪により、この竜は聖なる位階へと立ち入り、そこで裁きを実行する)。この竜は1,000の短い日々のうちの1つに発現する(数は日々と呼ばれ、低位の世界の数は短い日々と呼ばれる。それらのうち、10桁はその桁の計算により事実に帰しており、100桁は創造主の光の数であり、10桁から存在を引き出すので形成と関連し、1,000桁は同じ理由から創造である。だがこの竜はそれらの中でも最も強力な場所におり、この体系の数の1つのみでも低位者の過ちにより欠陥が起きるならば、この竜は即座に発現し、栄光の御座の御前でその告発をなすのである)。

(自らの尻尾を口で咥え、円のような形をとる蛇、サターン(ウロボロス)の蛇の良く知られている象徴の起源がここにある。花嫁(マルクト)の肩の背後から頭をもたげる理由は、この竜は裁きの執行者であるだけではなく、破壊者、創造に対立する破壊、命に対立する死でもあるからである。セフィロト全体は慈悲と正義の天秤として表されており、第10セフィラ、マルクトは特に正義の性質があり、また第5セフィラのゲブラーもそうである。竜は隠れているが、それは正義が必要とされるまでは呼ばれないからである。「桁の計算」という言葉は、勿論10のセフィロトを表している。竜が明かされた時にいるのは、告発を意味する。なぜなら、それは天秤が破壊されたのを示すからだ。腕時計で1つの歯車が壊れたら、すぐに針は不規則に動くようにである。ところで命が別の形態へと新たに生まれるためには、先の形の死が不可欠なのを暗喩している。栄光の御座とは、ブリアー界の事である)


27. その鱗は膨張し(すなわち、ワニのようにである。なぜなら、裁きの時には共に重なり合い大きくなるからである)、その頂上は自らの場所を保つ(すなわち、外側を超えたものを速める力は竜には無いからである)。

(この破壊者の中には「外側を速める」力は無い。なぜなら、この竜は求心性の存在であり、遠心性では無いからである)


28. だがその頭は大海の水により破壊されている(大海は知恵であり、慈悲、愛、優しさの泉である。それらが送られると、裁きは和らげられ、殻の有害な力は限られる)。詩篇 第74篇13節に「あなたは水の上の竜の頭を砕かれた」と書かれているようにである。

(「大海の水」はマルクトが反映する上位の母、ビナーの影響の事である。だがビナーもまた、ホクマーの影響を受けている。序説を参照せよ)


29. これらは2匹いる(雄と雌である。そのため詩篇では竜は複数形で記されている。だがこの複数形は最小限の形となっており、2匹のみであると理解できる)。これらは1匹へと減らされた(多数の者らに裁きを行わないように、雌のレヴィアタンは殺されたからである)。そのため、(先に述べた詩篇の文に出てくる)תנינם(ThNINM、タナニム)の言葉は、活用形の一部を欠くように書かれる(意図的にその制限を示すために)。

(読者がレヴィアタンに対する更なるユダヤ教の概念を知りたいならば、タルムードを読むのを勧める。タナニムは活用形の一部を欠くというのは複数形のי(I)の文字が省かれるからである。完全に書くとしたら、תנינם(ThNINM)ではなくתנינים(ThNINIM)となる。)


30. (だがこう言われる)頭ら(その種だけではなく個においても膨大な数を示すために、複数形で書かれる)は、エゼキエル書 第1章22節の「生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている」と書かれるようにある(また、この生き物という言葉、חיה(ChIH、ヒアー)は、天使らの類のように単数形であり、頭らが複数形であるのは、種と数えきれない個を示すためである)。

(「汝は、竜(タナニム)の頭を水により砕いた。」この竜は、「王家の谷」の著者が「殻」あるいはデーモン全ての王であると述べている事を忘れてはならない。そしてこのデーモンらは、10のカテゴリーに分けられ、それぞれ10のセフィロトと対応しているが、反対の形によってであり、「ベト エロヒム」の書では、「不純なセフィロト」と呼ばれている。レヴィアタン(ヘーラクレースが殺したヒドラを参照せよ)の頭らは、これらを表す可能性が高い。「ヨハネの黙示録」にある「666の獣」の描写と比較せよ)


31. 「そして神(エロヒム)は述べた、光あれ、そしてそこには光があった。」(この意味合いは、詩篇 第33篇9節の)「主が仰せられると、そのようになり」に見いだせよう。(そのため、まず最初に命ぜられるのは)、הוא(HVA、ホア)の小路(すなわち、理解の母であり、この句のほぼ始まりにある「そしてエロヒムは述べた」のאלהים(ALHIM、エロヒム)と呼ばれる。また彼女はהוא(HVA、ホア)とも呼ばれ、この詩篇 第33篇9節の言葉は、彼女の真の秘密の性質を扱っている)は単独である(モーセやダヴィデ王と同様に)。「そして、それはなされた」ויהי(VIHI、ヴァイェヒ)の言葉もまた、単独である(6つの仲間らが分離して考えられるように、ו(V、ヴァウ)は、ויהי(VIHI)の言葉の最初の場所を占めているのを見よ)

(この文では、上位の母はホアの言葉により象徴され、ホアが広大な顔を表す別の文と一見して矛盾しているように思えるかもしれないが、テトラグラマトンのה(H)の文字は、上位の母を象徴し、ホアの最初の文字でもあるのである。そして再び、ゲマトリア(序説を参照)を用いると、ホア、הוא(HVA) = 5 + 6 + 1 = 12であり、この2桁を足すと、 1 + 2 = 3となる。そしてこの3はビナーを象徴するが、それはこれが第3のセフィラだからである。「ויהי(VIHI)の言葉の最初の場所を占めているו(V、ヴァウ)を見よ」とあるのは、ו(V)は6の数を表すからである。序説でのアルファベットの表を参照せよ)


32. そして、文字は逆向きとなり、1つとなる(例えば、ויהי(VIHI)の言葉では、י(I、ヨド)、ה(H、へー)が前面に出て、יהוי(IHVI、ヤヘヴィ)と読めよう。これはテトラグラマトンの1つを作り、神全体を表わす。だが、これらはそこから裁きが起き上がる母に属するので、このテトラグラマトンは逆向きに書かれ、この書き方は、その逆向きの性質から、カバラ学者には裁きを表すとされる。これらから、この文字は、יהוי(IHVI、ヤヘヴィ)、יהו(IHV、イェホ)、יה(IH、ヤー)、י(I、ヨド)と減少していくように書かれる。だが理解の小路では、これらの裁き自身は存在せずに、その源のみであり、この小路も純粋な慈悲のみである。そのため、この逆向きの順番はさらに逆にされ、まず最初にי(I、ヨド)、יה(IH、ヤー)、יהו(IHV、イェホ)、יהוי(IHVI、ヤヘヴィ)となる。(だが、これはテトラグラマトンの通常の書き方、יהוה(IHVH、ヨド ヘー ヴァウ ヘー)とは書かれない。なぜなら、この言葉はויהי(VIHI、ヴァイェヒ)から導かれたものであり、それらの音位転換はここで議論されている。だがにも関わらず、最後の)文字は(すなわち、י(I、ヨド)であり、通常のテトラグラマトンでは最後のה(H、ヘー)の位置に置かれる)シェキナー(あるいは王妃の臨在)であり、それは下にある(すなわち、王国の小路、つまりמלכות(MLKVTh、マルクト)、10番目にして最後のセフィラの事である)。(他の例)にあるように、ה(H)の文字はシェキナーと見做せる)

(読者が序説での文字によるカバラの、ノタリコンとテムラーについて私が述べた内容を慎重に読んでいない限り、この文の意味合いは完全に理解不能であろう。そのため、ここで少し解説をする必要がある。あらゆる4文字の名前は勿論テトラグラマトンと言えるが、ここでは聖書の翻訳者がイェホヴァと呼ぶ4文字の言葉を特に指している。そしてヘブライ語やカルデア語は通常は右から左へと書かれ、左から右へと書かれるのは逆向きと呼ばれる事も覚えておく必要がある。また本文の「理解の小路」とは、第3のセフィラ、ビナーを意味する。シェキナーとは勿論、マルクトの小路で発現する神の臨在である。私はゾーハルで用いられている「小路」の意味合いについては、序説で説明している)


33. だが天秤ではこれらは均衡している(この天秤は、男と女を示しており、その意味合いはי(I、ヨド)とה(H、ヘー)の文字で――これらのうちのヨドは男性原理で、基盤の小路である。ヘーは女性原理で王妃と共にある――相互変換可能である。均衡が存在しつつも、これらの間には相互交流があり、1つへと結びついているからである。加えて、王妃はאדני(ADNI、アドナイ)とも呼ばれる。このうちのי(I、ヨド)はかつてのように軍の後衛をもたらす。これは低位の知恵とも常に呼ばれていたからである)。そして、生き物らは来たり去ったりしている(これはエゼキエル書 第1章14節にある生き物について述べている事である。これらは時には最後に、時には最初に、テトラグラマトンの4文字を保持すると言われる。י(I、ヨド)が最後の場所へと走っていき、それから始まりの場所へと戻ってくるように、ה(H、ヘー)も生き物であり、テトラグラマトンの最後のה(H、ヘー)が書かれる時に走っていく。なぜなら、その時には流出の系全てが消耗し尽くされるからである。だが、テトラグラマトンが最後のי(I、ヨド)と共に書かれたら、これらは帰還すると言われ、それによって、王妃の最後の小路から、ヨドの文字で表される基盤の最後の2番目へと帰還し、集められる)。

(私は序説の29節で「天秤」について定義したので参照せよ。「基盤の小路」は勿論、第9のセフィラ、イェソドの事である。一方で王妃は第10のマルクトである。そのためイェソドは小さな顔と花嫁とを繋げるリンクである。「かつてのように後衛をもたらす」י(I、ヨド)の文字は、אדני(ADNI、アドナイ)の中にある。なぜなら、これは最後の文字だからである。エゼキエル書の第1章14節のחיות הקדש(ChIVTh HQDSh、ハイオト ハ=カドシュ、聖なる生き物)をカバラ学者らはテトラグラマトンの4文字として理解する。「テトラグラマトンの4文字の、時には最後に、時には最初に保持される」の意味については、以下の2つの例を参照せよ。יהוי(IHVI、ヨド ヘー ヴァウ ヨド)では、י(I、ヨド)はこの言葉の始めと終わりにある。そして、יהוה(IHVH、ヨド ヘー ヴァウ ヘー)では、ה(H、ヘー)は、2番目と最後にある)


34. 同様に(聖書には)かく書かれている。「そして神(エロヒム)は光を見て、それを良きものと述べた」(この文を示した理由は、テトラグラマトンの最後の文字、י(I、ヨド)が、花嫁を象徴するだろうと示す事にある。神自身が基盤の結合の小路で光を見て、「良きもの」と述べたからである。だが、この基盤は結び付く働きにあり――すなわち良きものと交流する概念の下にあり――それゆえ花嫁なのである。だが、この基盤を示す「良きもの」という言葉は、イザヤ書 第3章10節でも明かされている。「義人」(すなわち、基盤の小路である。なぜなら、最初の人間アダムは、世界の基盤だと言われるからである。箴言 第10章25節を参照せよ)「に、彼らは幸いなる者だと述べよ。」それゆえ、これらは均衡のうちに上昇する(すなわち、י(I、ヨド)とה(H、ヘー)の2つの文字は、1つであり同じであるのを意味する。あるいは再びであるが、テトラグラマトンの4文字は均衡の力とともに上昇するのを見るのだ。すなわち、以前のויהי(VIHI、ヴァイェヒ)の言葉では分離して立っていたこれらの文字が、組み合わさった時にどう同意するかをである)

(「基盤の小路」は、勿論、第9のセフィラ、イェソドであり、小さな顔(先の16節を参照せよ)の6番目にあり、生殖の力を表している。マルクトは王妃である。テトラグラマトンの4文字、יהוה(IHVH)のי(I、ヨド)は、父(これは広大な顔では無いが、ヨドの文字の頂上にある点はその象徴と言われるように、そこにあるのを暗喩している)、ה(H、ヘー)は上位の母、ו(V、ヴァウ)は息子(小さな顔)、語末のה(H、ヘー)は花嫁(王妃)であるのを忘れてはならない。そしてこれは適切な順序である。そのためテトラグラマトンの他の派生は、יהוה(IHVH)の通常で正しい文字の場所を変化させたものである)


35. (その間、伴侶の小さな顔は)最初は単独であった(ו(V、ヴァウ)が最初の場所に立っている間、その花嫁とは分離されている)。だが、全ては一致へと帰還する(すなわち、父と母のみが1つへと結び付く。なぜなら、2つの文字、י(I、ヨド)とה(H、ヘー)が結び付いているからだ。だがまた、テトラグラマトン、יהוי(IHVI、ヤヘヴィ)の中のו(V、ヴァウ)がי(I、ヨド)の隣に置かれている間、小さな顔がその花嫁のもとへと帰還する。なぜなら)ו(V、ヴァウ)は降りていく(ויהי(VIHI、ヴァイェヒ)の言葉は「そして、それはなされた」であり、その時には最初の位置に置かれているからだ。だが、音位転換がなされると、このו(V、ヴァウ)は3番目の場所へと降りていき、יהוי(IHVI、ヤヘヴィ)となるであろう)。そして、これらはお互いに1つへと集める(男と女、ו(V、ヴァウ)とי(I、ヨド)、美と王妃の小路)、すなわちי(I、ヨド)とה(H、ヘー。これらより、知恵と知識、父と母が示される)は、お互いに抱擁する2組の恋人たちのようである(この2組の恋人たちとは、ו(V、ヴァウ)とי(I、ヨド)、この場合は最後のみか、י(I、ヨド)とה(H、ヘー)が共にある――この場合は始まりの、いずれかだと理解できる)。

(「美の小路」、第6のセフィラ、ティフェレトは、時にはו(V、ヴァウ)で表され、そのため時には小さな顔として表される。小さな顔を構成する6つのセフィロトの真に中心のセフィラだからである。またヴァウの数値は6である)


36. (次に、この「隠された神秘の書」の著者は、י(I、ヨド)とו(V、ヴァウ)の後の説明へと向かい、ו(V、ヴァウ)について述べる)6つの仲間らは、この体の源の枝より生み出される(この体は小さな顔の事である。体の源は母であり、ה(H、ヘー)で象徴される。源の枝とは、ו(V、ヴァウ)の文字で、ה(H、ヘー)の文字の中に包まれ、隠されている。そして、この枝から6つの仲間が生み出される。すなわち、ו(V、ヴァウ)全体は今、頭を得ている)。

(ここで記されている母とは、勿論、第3のセフィラ、ビナーの事である。小さな顔の6つの仲間らがヴァウの文字全体を構成するのが、この文字の値が6であることで暗喩されている)


37. 「この舌は大いなることを語る」(ダニエル書 第6章8節を参照せよ。また、この舌により基盤――すなわち、י(I、ヨド)の文字が、その花嫁と加わるのが理解される。この語るというのは花嫁から流れる母の流れである。王妃は御言葉と呼ばれるからであるが、大いなることは、そこから生み出される全ての段階の低位者たちである)

(全ての「段階」、「小路」の低位者たちとは、低位の諸世界にあるセフィロトの事である)


38. この舌はי(I、ヨド)とה(H、ヘー)の間に隠されている(父と母はיסוד(ISVD、イェソド)の中でお互いに結び付いているが、ダアト、知識の神秘の下で隠されている)

(テトラグラマトン、יהוה(IHVH)の最後のו(V)とה(H)の結合は、始まりでのי(I)とה(H)の結合と相似する)


39. なぜなら、(イザヤ書 第44章5節で)「ある人は、私は神(テトラグラマトン)のものであると述べている」と記されているからである(אני(ANI、アニー、私)の言葉は、裁きについて述べられる際には、王妃と関連づけられる。だが慈悲について述べられる際には、この場所にあるように、これは理解を表す。言うなれば、י(I、ヨド)で呼ばれる上位の小路、あるいは父との結びつきの働きにおける理解とは、テトラグラマトンの形成の目的であり、父と母との結合は、6つの仲間らを生み出すためにある)。「そして、別の者はיעקב(IOQB、ヤコブ)の名によって自分を呼ぶ」(名前によって呼ぶとは、それを保つ事である。そして、父と母との別の結合が、小さな顔を保つために行われ、それはヤコブと呼ばれる)。「そして別の者は『私は主のものである』と彼の手にしるす」(属するものを書くのは、律法あるいは美の小路を書く事であり、流れる事をも意味する。「彼の手に」はבידו(BIDV、ブヨド)であり、ביוד(BIVD、ブヨズ)のי(I、ヨド)による音位転換である――すなわち、基盤を通じてである。これらが意味を成すには、その流れより形成されよう。それにより、先に述べたように、テトラグラマトンはי(I、ヨド)とともに書かれよう)。「そしてイスラエルの名をもって、自らを呼ぶ。それゆえ、自らを真理において呼ぶ」(小さな顔を産むのは、ヤコブの名の下がより適切であり、その妻はラケルである。そしてヤコブの呼び名はイスラエルであり、その妻はレアである)

(理解とは第3のセフィラ、ビナーであり、上位のה(H、ヘー)により表わされる。「美しき小路」は第6のセフィラ、ティフェレトである。基盤は第9のセフィラ、イェソドであり、テトラグラマトンיהוי(IHVI)の最後のי(I、ヨド)は、イェソドを表している。一方で最初のי(I、ヨド)は第2のセフィラ、ホクマー、父に属する)


40. 私は主に属する者と述べた者は降りる(すなわち、י(I、ヨド)の受胎であり、それらの全ては上位の母がאני(ANI、アニー、私)の3文字に同意するので、それに帰する。この3文字は、א(A、アレフ)は至高の王冠であり、נ(N、ヌン)は50の名高い門の中の理解そのものであり、י(I、ヨド)は父の基盤あるいは知識である。だが、この例では、それらは低位の母の低位の段階に帰するものであり、今はאדני(ADNI、アドナイ)からד(D、ダレト)、欠乏を取り除かれ、流れに満たされ、それはאני(ANI、アニー)である)。そして万物はבידו(BIDV、ブヨド)と呼ばれる(すなわち、これら全てはיוד(IVD、ヨド)に充てられ、これらについては)万物は母の中に隠されたこの舌に密着する(すなわち、ダアト(知識)を通じて、知恵は理解と結びつき、美の小路はその花嫁と王妃を結び付ける。そして、これは隠されたイデア、あるいは魂であり、流出全体に満ちている)。これは、それ自身から現れるもののために開かれるからである(すなわち、ダアトはそれ自身が美の小路であり、同時にモーセが引用する内なるものである。そして、この小路は母の中に隠されており、その結合のための媒体である。だが外側にある何であれ、母から生まれ、それはヤコブと呼ばれる)。

(読者は、序説でのセフィロトの名前などを参照してほしい。50の門の中のヌンとは、このנ(N)の文字の数値50を表している。「低位の母」とは、勿論、יהוה(IHVH)の語末のה(H)の事で、「花嫁」でもある。知識ダアトは一般的に第2、3のセフィロトの結合を象徴する)


41. (そしてここでは、יהו(IHV、ヨド、ヘー、ヴァウ)は4文字の名前全体とは違っている。次に、著者は4文字の別の配置――すなわち、יהו(IHV、ヨド、ヘー、ヴァウ)――へと向けて述べる。)父は始まりの場所に住む(すなわち、י(I、ヨド)の文字で、これは知恵と父の象徴であり、4文字全体の場合のように、ここでも最初の場所に置かれている。王冠は隠されているので、それはヨドの文字の頂点とのみ比較される)。母は中間にある(ה(H、ヘー)の文字は、形無き理解、上位の母の象徴であり、上位の母が父に上から、小さな顔、息子に下から挟まれているように、י(I、ヨド)とו(V、ヴァウ)の間に隠れている。彼女は下から覆われていて、そこへ向かって彼女はホド、栄光の小路を通って降りていく)。そして、彼女は(父と子の2人からの)両方の面で覆われる。災いなるかな、災いなるかな、彼女の裸を明かす者は!(低位者らの過ちによりなされるので、小さな顔はその流れを失う。流れは強い力があるので、息子は母に覆うのを求める。この覆いは、上位の流れを受け取る事であり、それを低位へと送れるようにもなり、それらはイスラエル人が雄牛(の偶像崇拝)の罪を犯した時のように、母が覆われておらず、小さな顔から取り除かれていたら、行えないのである)。

(יהו(IHV)は、勿論テトラグラマトンיהוה(IHVH)のうちの最後のה(H)が無いものである。興味深い事に、「セフェル イェツィラー」と呼ばれるカバラの書では、テトラグラマトンの4文字の代わりに3文字の名前が用いられている。隠された王冠とは第1のセフィラ、ケテル、広大な顔の事で、それはאהיה(AHIH)であり、そのためיהוה(IHVH)では明白には示されない。ホドの小路は第8のセフィラである。母を取り囲む父と子とは、勿論、יהו(IHV)の言葉の中にあるי(I)とו(V)の文字である。イスラエル人が雄牛の罪を犯したという内容については、私はこれらと密接に関連していると想像する。(a)この雄牛はאלהים(ALHIM、エロヒム)の象徴であり、יהוה(IHVH)ではない。これらのイスラエル人は「我らの前を進むエロヒムを造ろう」と述べているからである。(b)この名前「エロヒム」は、テトラグラマトンの女性原理の部分である2つのה(H)に用いられている。(c)そのため、これらのイスラエル人が崇めた力はアンバランスであり、男性原理のיו(IV)のみを崇拝するのと同じくらいに悪いものであったろう)


42. そして神は、מארת(MARTh、マロト)、天の星々に光あれと述べた(次に著者は、4文字の名前の前半の部分へと向かう。すなわち、יה(IH、ヨド、ヘー)の2文字である。この光は、太陽と月、美の小路と王国あるいは花嫁と理解される。もっとも通常は、これら2つの文字は、父と母、知恵と理解と考えられるが、מארת(MARTh、マロト)の言葉が、不完全形として書かれるように、ここでは上位の光は欠けている。それは天の星々に適切に用いるのを意味する――すなわち、基盤、拡張、夫婦の結合の準備である。伴侶は天と呼ばれ、この契約のメンバーは天の星々であり、そのため、יהוי(IHVI、ヨド、ヘー、ヴァウ、ヨド)の最後の2つの小路は、ו(V、ヴァウ)とי(I、ヨド)に定められているように、方形のこの部分は、י(I、ヨド)とה(H、ヘー)に定められている)。夫はその妻を支配する(これはו(V、ヴァウ)ではなく、י(I、ヨド)で書かれていて、これは契約のメンバーの象徴であり、女との実際の交わりを示している)。聖書(箴言 第10章25節)で書かれているように、「正しい者はこの世界の基盤である」(これを述べる事で、著者はその意味合いを描く。なぜなら、י(I、ヨド)の文字は、それにより世界が存在する基盤であるメンバーを理解するからである)。

(読者が序説を再び読むならば、そこで四世界などでのセフィロトの働きを示す表を見出すであろう。そのアシヤー界では、太陽はティフェレトとして、月はイェソドとして示されている。さらに、不完全だったり過剰だったりした形で書かれる特別な言葉についても、序説の第15節で述べている。「方形」や「方形の名前」は、時にはテトラグラマトンの意味で用いられる。「契約のメンバー」という言葉は、おそらく割礼の象徴を指す可能性が高い。この場合、י(I、ヨド)、イェソドの小路、第9セフィラは、男根の象徴的な意味合いがある)


43. そのため、ヨドは2つを照らす(すなわち、テトラグラマトンの方形のי(I、ヨド)の文字には、2つの意味での流れがある。その第1のものは、母を照らす父の意味である。第2のものは、小さな顔、あるいは王国を照らすその契約である)。そして(再び別の意味合いでは)それは輝き(すなわち、第3の意味合いもあり、完全な名前では最後の文字を構成する)、女(すなわち先に示したように小さな顔の花嫁)へと伝えられる(なぜなら、これはテトラグラマトンיהוה(IHVH)の最後のה(H、ヘー)の場所に置かれるからである。また、これはיאחד ונהי(IAChD、VNHI)の存在と支配の名前を繋げる意味合いの同じ力も持つ)。


44. (次に著者はこの方形の最後の部分、י(I、ヨド)のみへと向け、述べる)י(I、ヨド)は一つ、単独として留まる(単独のי(I、ヨド)からの全ての流れを示す。これは点の形をしつつも、他で見る3つの部分にも加わっている。また、この場所は女、あるいは王国のみを示しており、その中に全ての上位者らは含まれている)。

(テトラグラマトンの最後のヨドはその総合、円の動きを表しており、この動きにより最初の場所へと戻る。「天上文字」として知られる秘密のカバラの文字では、ヨドは正三角形とその角にある3つの円で表されている。第10セフィラ、マルクトは勿論、全ての他のセフィロトの流れを受け取る(四世界のセフィロトの送受信を示す表を参照せよ))


45. さすれば(テトラグラマトンが、ここで示したようなものではなく、以下のような方形、יהוי(IHVI)、יהו(IHV)、יה(IH)、י(I)ならば、ヨドもある意味では単独であるが、明白に反対の意味である。これは、上へ上へと小路を上昇するからである。すなわち、美や基盤の小路を表す、(途中での)より高い感覚をそれほど受け取らず、父あるいは知恵である至高のものを受け取る)、女は再び隠される(すなわち、この例の前者の意味では、小さな顔の花嫁を示しており、上で書いたテトラグラマトンの形では、最後の文字は自らの中に終わるからである)。

(これは逆向きにした場合で、י(I)の文字が、テトラグラマトンの最後の文字として終わった場合には、花嫁をもはや意味しない)


46. そして母は照らされる(すなわち、通常の反対のテトラグラマトンの後半の部分はיה(IH)の2文字で構成され、父を表すי(I、ヨド)は、母を表すה(H、ヘー)へと加えられる。そして、この2つは自ら結び付く。その輝く影響はこれらに示されているので、この上位の知恵により理解が注がれる)。そして、彼女の諸門を開く(すなわち、これら2つの文字が、密接に繋がっているならば、50の数から現れた5つ組より放たれ、これは理解の50の門として表されている。これらは開かれると言われるが、それはה(H、ヘー)の文字は、最後にあり保護されておらず、他の次の文字が述べられる事が無いからである)。

(これはテトラグラマトンの残りから分離され、自らでは結び付いたיה(IH)の文字らについて述べている。そしてI = 10で H = 5なので、これら2つの文字が結び付くと(共に掛け合わせると)、נ(N) = 50を与える。そしてこれらは、理解の50の門あるいは要素である。これらは開かれているが、それはיה(IH、ヤー)の言葉でה(H)は最後にあり、テトラグラマトンיהוה(IHVH)のוה(VH)や、3つ組の名前יהו(IHV)のו(V)のように、次の文字により閉ざされないからである)


47. この鍵は与えられ、6つのものに含まれ、その門を閉ざす(すなわち、この逆向きの形のテトラグラマトンの第3の部分、יהו(IHV)では、ה(H)の文字は最後ではなく、テトラグラマトンの第3の文字のו(V)が閉ざしており、この場所は小さな顔の6つの仲間らを示しており、上位の母が最後の門としてこれらを監督しているが、この門、栄光の小路、הוד(HVD、ホド)が閉ざされ、残りのもの、慈悲、峻厳、美、勝利と組み合わされ、それらの存在を10の組から引き出す)。

(3つ組の名前のיהו(IHV)の中のו(V)が、この鍵と呼ばれよう。なぜなら、יה(IH)で象徴される50の門を、これはה(H)の次にある事で、自らとה(H)の間にある文字を閉ざすからである。「10の組」とは10のセフィロトを意味し、これらはי(I、ヨド)の値の10で象徴されている)


48. そして、この鍵は低位者らとその部分に用いられる(あるいは、「この鍵はあれこれの側面に用いられる」とも読める。次に、方形の第4の部分についての議論に入り、ここでは最後の小路がה(H)かי(I)のいずれに書かれようとも、名前は完成する。そのため、いずれにせよ小さな顔の花嫁は加えられよう。そのため、小さな顔の上下の両方ともリンクが繋がる。小さな顔は母を上位の部分から覆い、彼自身の魂として母を自らのうちへと受け取る。また、小さな顔は自らの花嫁により、低位の部分から覆われ、自らも彼女の魂となる)。

(この花嫁、テトラグラマトンの低位のה(H、ヘー)は、上位のה(H、ヘー)の反映だと言われる。それは、小さな顔が広大な顔の反映と言われるようにである)


49. 彼女の門を開いた者は災いなるかな!(諸門は影響が流れる小路だと言われる。これらは閉ざされていると言われるが、反対に多すぎる影響は低位者らは受け取れないからである。そのため、仲間らは仲間らにより影に覆われて、光はその流れの中で消え去ろう。だが、これらの光の連鎖と障害が、低位者らの罪により分離されるならば、どの流れもこの世界に適切には来れないようになる)

(セフィロトの均衡の象徴に従うと、低位の小路らの罪は、アンバランスの力を招いた事であろう。読者はこれらの最後の幾らかの節を理解するのが、最初は少し難しいかもしれないが、何度も読んでいるうちに、その意味合いは明らかとなるであろう)


ゾーハル 隠された神秘の書 2
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