アブラメリン 前書き

ページ名:アブラメリン 前書き

S.L. マクレガー マサースによる前書き


 おそらく「ベデカー旅行案内書」のパリ観光案内では、「Bibliothèque de l'Arsenal(アルスナル図書館)」については3、4行ほどしか書かれていないため、パリを訪れた英国人やアメリカ人のうちの殆んどは、少なくとも名前くらいは「国立図書館」や「マザラン図書館」は知っていようが、こちらはごく少数のみがその名前、状況、中身について知っていよう。


 この今では「アルスナル(兵器庫)」と呼ばれる図書館は、もとはポルミーとダルジャンゾン侯爵のアントワーヌ ルネ ヴォワイエの個人蔵としてパリの兵器庫のあった地区に建てられたもので、最初に公共へと開かれたのはフランス革命後の革命暦5年フロレアール月9日(西暦1797年4月28日)、ちょうど百年前の事であった。このポルミー侯爵は1722年に生まれて1787年に亡くなり、陸軍大臣の後に順にスイス、ポーランド、ヴェネツィア共和国大使を務めた。その晩年は、この図書館を造るのに捧げられ、知られる中でも最も豊かな個人蔵であった。そして1785年にアルトワ伯爵に買い取られ、現在ではフランス国に属している。その位置はルー ドゥ サリー地区のセーヌ川の右岸にあり、バスティーユ広場からそう遠くなく、「アルスナル図書館」として知られる。この図書館では今では概数で70万の印刷された書と、8千の文書を保有し*1、それらの多くは価値あるものとされている。


 この文書群の中の1つがこの「ユダヤ人アブラハムよりその息子ラメクへと送られた、アブラメリンの神聖魔術の書」である。そしてこれを私は初めて印刷した形で世に出すのである。


 何年も前から私はこの文書の存在を、既に亡くなったある高名なオカルティストから聞いており、より最近にも我が友人、良く知られたフランス人著者、講演者、詩人で、時にはオカルトの主題へと関心を向けていた、ジュールス ボアから聞いていた。最初に述べた方の情報提供者が私に述べるには、この書はブルワー リットンとエリファス レヴィの両方にも知られていて、リットンの小説「ザノーニ」に出てくる薔薇十字団の老賢者メジェノルの説明は、アブラメリンが元となっており、一方で「奇妙な物語」のフィリップ デルヴァル卿のいわゆる観測所は、本書の第2の書の第11章にある魔術の祈祷堂とあずまやを、そのまま写したものである。また確実に、「ザノーニ」のメジェノルが、新入りニオファイトのグラインドンへ行った教授、その住居に独りにする試練を課してから短い旅へと出て、それから予期しない時に帰るやり方は、アブラメリンがアブラハムに用いたものと酷似しており、違いはアブラハムはこの試練を通り抜けたものの、グラインドンは失敗した事くらいである。また「奇妙な物語」でフィリップ デルヴァル卿が生涯で印象に残っているオカルト経験、見つけた古文書を試みて、驚く事にその一部は成功したと語るシーンは、著者が第3の書で詳細に説明している内容を参考にしたと思われる。


 この本書が翻訳した元の、アブラメリンの聖なる魔術の稀でユニークな文書は、元のユダヤ人アブラハムのヘブライ語版からフランス語へと翻訳されたものである。この文書の文体は、17世紀末から18世紀初頭に一般的で、これも「アルスナル図書館」にある「ピカトリクスの魔術」の別の文書*2と同じ人物の手で書かれているようである。私は他にアブラメリンの神聖魔術の書の複写やレプリカが、多数のオカルト文書を集積し、私が大いに学んできた大英博物館にすら、あるかどうかを知らない。また私は、この他の文書の実在についての伝統的な報告も聞いた事が無い*3。そのため、本書を出版する事によって、私は英国とアメリカのオカルティズムの学徒に、歴史上初めてオカルト的観点から非常に重要な魔術書を、彼らの手に届く場所へ置く事で、真の利益を与えたと感じている。


 この文書は3つの部分に分割されており、それぞれには独自のタイトルページがある。それらは赤と黒のインクで単純なデザインの装飾で取り囲まれていて、明らかにそれらには象徴的な意味合いは何も無く、タイトルページの清浄で完全な見た目を与えるために書家が意識的に書いたものに過ぎない。それぞれに言葉は同じもので、「Livre Premier (第2、3の書の場合は、Second あるいは Troisième) de la Sacrée Magie que Dieu donna à Moyse, Aaron, David, Salomon et à d'autres Saints Patriarches et Prophetes qui enseigne la vraye sapience Divine laissée par Abraham à Lamech son Fils traduite de l'hébreu 1458」であり、その翻訳を私はそれぞれの箇所で入れている。


 元の文書の余白のページには、以下の注記が18世紀末の文体の手書きで書かれてあった。
「この巻には3つの書が含まれ、これはその第1の書である。アブラハムとここで問題とされるラメクの両者とも15世紀のユダヤ人で、この時代のユダヤ人は最良の妖術師にして占星術師であった亡きソロモン王のカバラを保有していた事で良く知られている。」


 それから、別のより最近書かれたものもある。
「この巻には3つの部分で構成され、第1の部分は102ページ、第2の部分は194ページ、第3の部分は117ページ、合計で413ページある。1883年6月。」


 この文書で著者のフランス人が用いた文体は、いささか曖昧で古びたものであり、何も句読点を置こうとしない事や、比較的稀にしか文節を分けたりしていないという、2つの性質が残念ながら目立つ。文末の句点「。」や、次の文の頭の大文字すら通常は欠けているのである。以下の例は、これは第3の書の終わり近くから取ったものである。「Cest pourquoy la premiere chose que tu dois faire principalement ates esprits familiers sera de leur commander de ne tedire jamais aucune chose deuxmemes que lorsque tu les interrogeras amoins queles fut pour tavertir des choses qui concerne ton utilite outon prejudice parceque situ ne leur limite pas leparler ils tediront tant etdesi grandes choses quils tofusquiront lentendement et tu ne scaurois aquoy tentenir desorte que dans la confusion des choses ils pourroient te faire prevariquer ettefaire tomber dans des erreurs irreparables ne te fais jamais prier en aucune chose ou tu pourras aider et seccourir tonprochain et nattends pas quil tele demande mais tache descavoir afond」など。この引用は、この書の平均的なフランス語の見当を与えるであろう。だが第1の書の文体は、第2、3の書と比べてはるかに口語体で、アブラハムから息子ラメクへと特に呼びかけるもので、このラメクという人物は本書全体で唯一用いられている*4。一部の英語圏読者は知らないかもしれず、ここで注記が必要であろうが、フランス語の「tu」(汝)は、親友や親族、夫と妻、恋人などの間でのみ用いられている。一方で「vous」(あなた)は、より一般的な層へ向けて呼びかけるものである。また聖書や祈りなどでは、「vous」が用いられている。我々が用いる「thou」は、「tu」よりも、より厳粛な音の響きがある。ゆえにフランス語の動詞「tutoyer」には非常に密接な関係となるのや、極端に友好的に結び付く、それどころか横柄に打ち解けるのすらも意味する。この第1の書では、魔術についての助言や、アブラハムの旅と経験、さらにこの神聖魔術の体系によって得る事のできた多くの奇跡的な働きの記述が含まれている。第2と3の書(ここに真にアブラメリンの魔術が含まれ、アブラメリンがユダヤ人アブラハムに託された2つの文書が実質的に基礎となっているが、アブラハムによる注釈も加えられている)は、第1の書とは文体が違っており、表現法は古風で時には曖昧であり、ほとんどの部分で「tu」の代わりに二人称複数形の「vous」が用いられている。


 本書はゆえに、大まかにこのように分類されよう。
 第1の書:= 助言と自伝。両方とも著者より息子ラメクへと向けられている。
 第2の書:= 望む魔力を得るための方法の一般的で完全な説明。
 第3の書:= 膨大な数の魔術の結果を生み出すための、これらの力の応用。


 第2、3の書の各章には実際の文書にも特別な章題があるが、第1の書には一切無く、そのため私は「目次」では、本文を慎重に分析する事で仮題を与えておいた。


 アブラハムが賢者アブラメリンから受け取った、この神聖魔術の体系と、著者が個人的で実際に働いた驚異的な効果の多くについては、第3の書や他の多くの場所で記されている。


 ところで、このユダヤ人アブラハムとは何者であろうか?*5 文書には何の記述も無いが、彼はニコラ フラメルが受け取り、その研究の結果「賢者の石」を獲得するに至ったとされる、皮あるいはパピルスの21ページの高名な錬金術書の著者である、ユダヤ人アブラハムの子孫である可能性がある。フラメルの残した遺物は、現在でも残っている畜殺人聖ヤコブ教会の塔であり、これはシャトレ広場の傍に立っていて、アルスナル図書館から徒歩10分の距離にある。そしてこの塔の傍にある通りは「ニコラ フラメル通り」と名付けられており、その記憶は、フラメルが近くに住んでいた教会とともに、パリになおも残っている。それは哲学者の石を獲得した後に、フラメルとその妻ペルネレが、ここに美しい柱列を建てたのを記念してであった。


 自身の申し立てによると、本書の著者アブラハムは1362年に生まれ、自らの息子で26歳になったラメクに向けてこの文書を1458年に書いたとされる。そうなると、このアブラハムはニコラ フラメルとペルネレ、およびヨーロッパの高名な薔薇十字友愛団の創始者である神秘的なクリスティアン ローゼンクロイツと同時代人という事になる。このローゼンクロイツに似て、アブラハムは魔術の知識を得る強い望みを若い頃に抱き、ローゼンクロイツやフラメルのように、家を離れて、秘儀参入の知恵の探求の旅に出た。そして両者のように、アブラハムも奇跡の働き手となって帰還した。この時代、秘密の知識は自らの家と国を離れて、その探究の中で危険と困難を進む事によってのみ得られると、ほとんど普遍的に信じられていた。この考えは現代でもある程度は残っている。ブラヴァツキー夫人の後半生はその良い例である。


 ユダヤ人アブラハムが住んでいたこの時代、魔術はほとんど普遍的に信じられており、その教授らは名誉を与えられていた。ファウスト(おそらく、我らが著者と同時代人である)、コルネリウス アグリッパ、マイケル スコット卿、その他多くを私はこれらの例として挙げられ、少し時代が過ぎるが高名なディー博士については言うまでもない。このディー博士と、その仲間のエドワード ケリー卿の歴史、この時代のヨーロッパ政治で果たした役割については、ここで記す必要が無い程によく知られていよう。


 このユダヤ人アブラハムが政治的影響力でこれらの魔術師らに後れを取る事が無かったのは、本書を熟読する者には明らかである。この怖ろしくも教訓的な時代の、中央ヨーロッパの大変動の膨大な混乱の背後で、彼は微かに影のように立っていた。この種の達人が、国家の大いなる危機の歴史の劇場で過去も今も常に現れてきたようにである。この時代、社会の2つの最も強力なレバー――教皇庁とドイツ帝国――の方向を求める3つのライバルの権利主張者らが起きており、ライバルの司教らの嫉妬、王朝の転覆、ローマ教会はその基盤から震えていて、怖ろしい闘争の警鐘をヨーロッパ中に鳴り響かせていた。これらはやがては、社会の再編を促し、この国家の動乱のつむじ風は、昨日の文明をその渦巻きに飲み込み、明日の再建の準備もしていた。我らの著者のような者らの莫大な歴史的重要性は、常に過小評価され、一般に疑われている。にも関わらず、ベルシャザールの饗宴*6の壁に書かれた文字に似て、政治と歴史の領域における彼らの操作は、「メネ、メネ、テケル、ウパルシン*7」の壁の文字のように、愚かで理解できない世俗への警告となっている。


 達人らの完全で真の歴史は、自らによって書かれたもののみであろうし、例えそうであっても、世俗の者らの目にもたらされたとしたら、どれだけの人間がそれを信じられようか? 第1の書に含まれている、我らが著者の生涯の主な出来事の短くも不完全な文すらも、ほとんどの読者には完全に信じられないものだろう。だがこれらの中でも印象を打つのは、著者自身の強い信仰であり、それらは著者が何年にも渡って多くの危険な旅をしている事で証明されている。これらの荒野で危険な場所は、現在においてすら、我らの恵まれた全ての輸送手段を用いても通過は難しいのである。この信仰はやがては著者に報酬をもたらすが、それは彼ですらも勇気を失い、心を病み、希望が失われた時においてであった。彼の名前の元となった、ヘブライ族の父祖のように、彼の「カルデアのウル」の家からの出発は無駄では無く、そのために彼の魂が何年にもわたって叫んできた、秘儀参入された知恵の光をやがては発見するのである。著者の放浪のこの頂点は、エジプトの賢者アブラメリンとの遭遇であった。この賢者から、著者は魔術の教授と実践の体系を受け取り、それらは本書の第2、3の書の本体を形成するのである。


 原書において、このアブラメリンの名前はAbra-Melin、Abramelin、Abramelim、Abraha-Melinというように、様々な綴りで書かれている。これらの中から私はAbra-Melinの綴りをタイトルページに用いて、同様にこの前書きでも継続する事にしている。


 これらの文書から集められる限りにおいて、ユダヤ人アブラハムは旅が終わってから主に住んだ場所は、ヴュルツブルク、あるいは中世で呼ばれていた名前のヘルビポリスであった。アブラハムは従姉妹と結婚したようで、2人の息子を持ち、長男はヨセフと名付け、聖なるカバラの神秘を教授した。そして次男はラメクと名付け、遺産として神聖魔術の体系を授け、また第1の書の全体をこの息子に託している。アブラハムはさらに3人の娘らを持ったと述べており、それぞれには100,000フローリン金貨を持参金として与えている。アブラハムは第3の書に記された魔術作業によって、妻と3,000,000フローリン金貨の宝の両方を得たとはっきりと書いている。さらにアブラハムは、その最初のカバラと魔術の研究への傾向は、父シモンから若い時に受けたカバラの秘密の教授に負っていると認めている。そのため、父の死後のアブラハムの最も強い望みは、秘儀を知る師を探求する旅であった。


 オカルティズムの誠実で熱心な学徒には、推奨される最も稀で必要な性質、不動の信念の有無や、魔術体系の真偽を見分けたり、魔術の効果を生むための方向付けの集まりを与えられていようといまいと、この作業がその価値を落とす事はあるまい。これらは本書の著者が、試みて成功した事で確証している。


 本書で特に価値があるのは、ユダヤ人アブラハムが放浪や旅をする途中で出会った「誰も名付けられない術」の様々な教授らや、著者が働かせた多くの奇跡の記録、そして何よりも、第3の書にある魔術の試みの慎重な区分けと、そこにある著者の観察と助言である。


 それらにも興味が劣らないものは、アブラハムが恩恵や損害のために奇跡を行った、この時代の様々な有名人である。ドイツ皇帝シギスムンド、後の好戦公のフレデリック伯、アブラハムの住んでいた町の司教(おそらくは教皇ボニファティウス9世の認可のもとで1403年にヴュルツブルク大学の設立を始めたヨハネ1世か、この高貴な作業を完成させたエヒター フォン メスペルブルンであろう)、ウォリック伯、イングランド王ヘンリー6世、対立教皇時代のヨハネス23世、マルティヌス5世、グレゴリウス12世、ベネディクトゥス13世ら、コンスタンツ公会議の面々、バイエルン公、ザクセン公レオポルト、ギリシア(ビザンチン)皇帝コンスタンティノス13世 パレオロゴス、さらにおそらくはマクデブルク大司教アルベルト、フス派の幾らかの指導者たち――この激動の時代の高名な名前が並んだ絢爛たる巻物である。


 著者が生きていた時代、属していた国について考えると、アブラハムはその宗教への観点で平均よりも幅広い視野を持っていたように思える。この神聖魔術の体系は、ユダヤ人、キリスト教徒、イスラーム教徒、多神教徒のいずれでも得られると主張するだけではなく、息子ラメクに対して生まれた時の宗教を変える事の過ちを何度も警告していた。そして、アブラハムはパリのヨセフ(本書で著者とこの魔術体系を授けたアブラメリンを除いて、唯一出てくる固有名詞の人物である)という魔術師のたまに失敗する理由がこれである、つまりキリスト教徒として生まれたのに、ユダヤ教に改宗したためだと主張していた。そのような動きによって、特定のオカルト的な不利が結び付いてくるとは、オカルト的観点からは一見して明白とはいえない。だが我々はこの時代において、改宗とは改宗者の前の宗教の全ての真理の、絶対的で厳粛な放棄と拒絶を必然的に意味していたのを忘れてはならない。ゆえに危険が内在する。なぜなら、宗教の特定の形にどれだけ過ち、腐敗、間違いがあったとしても、それら全ては至高の神的な諸力を認める事を基礎とし、導かれているからである。そのため、どの宗教の(間違え誤った部分を修正する代わりに)拒否も、それらが元に基盤としていた真理の、形式的儀式的な拒絶と同等となるであろう。そのため、このような行いをしてから、神聖魔術の作業をなそうとする者は、先に魔術的、儀式的に(無知を通じて)拒絶した同じ術式を、自らの全ての意志力とともに確証するよう自らを強制する必要がある。そしてこれをなす時、オカルトの反作用の法則は、生み出したいと望む効果に対して、儀式的な障害を引き起こすであろう。先になした儀式的拒絶の記憶は、自らの環境の中に堅固に封印されているのである。そしてこの力は、この者が先に拒絶した信条と同じような方法と度合いの正確な比率にあるだろう。全ての魔術の働きの障害の中でも、不信は最大にして最も致命的なものであり、それは意志の働きを調べ止めるからである。これは最も一般的な自然の働きの中にすら見る事が出来る。最初に行いが非実践的で不可能だと考えるならば、どの子供も歩く事を学べず、どの学徒もどの学問の形式も理解出来ないであろう。そのため全ての達人、宗教や魔術の偉大な教師らは、必然的に信仰の必要性について強調していたのである。


 全ての宗教の卓越性を認めるという広い視野を持っていたものの、残念ながらアブラハムは、何世紀にもわたって男と区別してきた女の嫉妬深さについての、よくある偏見を示している。私が知る限りは、これらは古代から起き上がった考えであり、その頃は何世紀に渡り女は男に対して何も劣った部分は無いと認められており、アマゾン族の伝説のように、女はその超越性を速やかに示して、男ら(彼女らの特有の敵であるギリシア人の書でもしぶしぶ認めていた)は勇気によってではなく数によって彼女らを征服したのである。ユダヤ人アブラハムは、この神聖魔術は乙女によっても獲得できるとしぶしぶ認めていたが、同時に誰も彼女に教えないようにと述べている! 今日の多数の婦人の上級オカルト学徒らは、これに対しての最良の返答である。


 先に述べた欠点にも関わらず、獲得した魔力を、神の誉れ、隣人らの幸福と安心、生き物全ての利益のために用いる事へのアブラハムの助言は、最高の敬意を与える価値がある。そしてアブラハムの至高の望みは、その信念のもとに働く事であるのを、本書を読む者は誰もが感じるであろう。


 だが、この体系により魔力を得た後の隠遁生活(私は、前行としての6ヶ月の隠遁の事を述べているのではない)についての助言は、アブラハム自身の生涯の歴史から裏付けられていない。その生涯の中、アブラハムは定期的に対立や変動に巻き込まれていた記録がある。また隠者や世捨て人となるのを多く勧めているものの、私は大いなる秘密の達人らと外の世界の間の媒介者で、秘儀参入され奇跡を働く者と呼べるであろう達人らの中で、それらに従っている者を、ほとんど見つけ出していない。これらの奇跡をなす達人の例は我らが著者として、秘密の達人の例はアブラメリンとして我々は見出せるであろう。


 本書で述べられている特有の魔術体系は、ある程度は「独特」であるが、これはある意味のみである。むしろ、その応用の方法がユニークといえる。魔術、すなわち自然の秘密の諸力の制御の学問では、2つの大流派に分かれており、片方は善に、もう片方は悪に、前者は光の魔術、後者は闇の魔術であり、前者は通常は天使的な自然の知識と招聘に拠るものであり、後者は悪魔的な種族の召喚の方法に拠っている。通常、前者は白魔術と呼ばれ、それに対する後者は黒魔術と呼ばれる。


 そのため、天使の諸力の招聘は、魔術の作業では一般的な考えであり、また悪霊への契約と服従の儀式もである。だが本書で教えている体系では、以下の概念に拠るものである。(1)光の善霊と天使的な諸力は、闇の堕天した霊らより力において上位にある。(2)この闇の霊らは懲罰として、光の魔術の秘儀参入者に仕えるように強制されている(この考えはまた、コーラン、これはよくそう書かれているが、正確にはクルアーン、にも見出せる)。(3)この教義から必然的に、全ての「通常の」物質的効果と現象は、一般に善霊の指揮下でなす悪霊の働きにより造られる。(4)さらに必然的に、悪しきデーモンが善霊の制御から逃れられたら、復讐をしようとしない悪魔は存在しない。(5)そのため、人に従うよりも、この者を契約と同意を結ぶように誘ったりして、自らの従者にしようと試みるであろう。(6)さらに進んで、この者が強迫観念を持つための、あらゆる手段を用いようとするだろう。(7)そのため、達人となるには、これらを支配する必要がある。可能な最も堅固な意志、魂と意図の純粋さ、自己制御の力は不可欠である。(8)これらはあらゆる面での自己放棄によってのみ得られる。(9)それゆえ、人は中間の自然であり、天使と悪魔の間にある中間の自然への制御者であり、そのため各人はそれぞれが自然と守護天使と悪しきデーモンが付いている。また、特定の霊らは使い魔ファミリアーとなり、魔術師の望む勝利を与えるべく傍で待機する。(10)そのため、低位で悪しき霊らを支配し、仕えさせるためには、高次の善霊との知遇(現在の神智学の言葉を用いるならば、ハイアーセルフの知識)が求められる。


 これらから導かれる結果として、本書から生み出される大いなる作業とは、浄化と自己放棄によって、自らの守護天使との知遇と対話を得て、それにより全ての物質的な問題への我らの従者として悪霊らを用いる権利を得る事にある。


 ゆえにこれらが、その弟子ユダヤ人アブラハムにより伝えられるアブラメリンの神聖魔術の体系である。そして、細かい点について以下で詳述するとしよう。


 黒魔術と公言する一部のグリモアを除いて、悪魔を制御するための神的で天使的な諸力を招聘する必要性については、中世の魔術の文書と出版物で記され教えていた召喚の作業において、常に述べられてきた事であった。そのため先に述べたように、本書にあるように6ヶ月の準備によって、その精神状態を造り上げていくのは、稀な事では無い。一方で再び述べるが、悪魔らのその権能や、その働きにより生み出せる効果の、全般的で完全な分類は他に見つけられるものでは無い。


 アブラハムの旅の記述にある興味の他に、彼が出会った魔力を持つと公言する様々な人物について、彼らが何を行え、何を行えないか、彼らの試みの成功や失敗の理由の慎重な記録は、それ自身で特別な価値がある。


 守護天使の招聘のために子供の見霊者を用いる考えは、珍しいものでは無い。例えば、ウィルキー コリンズの小説「月長石」の読者全てにはお馴染みであろう東洋の神託の一つ「メンダル」では、子供の手のひらにインクを垂らして、この子供は作業者から特別な神秘的な言葉を聞かされ続けた後に、遠隔透視的な幻視をするのである。中世の偉大な彫刻家、ベンヴェヌート チェッリーニが助手をしたと言われる有名な召喚儀式でも、他にも見霊者(seer)として子供の助けもあって行われた。またカリオストロ伯爵*8も、このために子供を用いたと言われる。だが私にとっては、作業者の心が純粋で、人間誰もが生来持っている遠隔透視能力を開発し、思念の幻視(thought-vision)を用いていたとしたら、天使召喚で子供を用いる必要性について理解できない。この思念の幻視は誰もが良く知っている場所、人物、物について考えている時に、ほとんど無意識的に行っている事である。この思考を持つとともに、すぐにイメージが心の目の前に現れる。これの意識的で自発的な開発によって、一般に呼ばれる遠隔透視の基礎となるのである。スコットランドの高地人の間では、この能力は良く知られていて、一般に行われているのである。そして英語ではこれは一般に「透視(second-sight)」として語られている。


 残念ながら現代のあまりに多くのオカルティストらのように、ユダヤ人アブラハムは自分自身のもの以外の魔術体系への明白な不寛容を示している。アバノのピエトロ*9の高名さすら、その著「ヘプタメロン、あるいは魔術の要素」を、この第3の書での結論にある非難から逃れるには充分では無かったのである。呪文、ペンタクル、印、象徴、魔術の円の使用、自らの母国語の使用について書かれたこの魔術の書について、一見すると全て非難しているようであるが、慎重に文章を検討すると、私が思うに、知的で適切に規則化された使用よりも、その意味の無知からの悪用についてアブラハムは非難しているのを見出せる。


 真の学徒らの利益のために、秘儀伝授者のオカルト的観点から慎重にこれらは検討すべきであろう。


 アブラハムは様々な箇所で、この神聖魔術体系の基盤はカバラの中に見出せると主張している。またアブラハムは、自らの長男、そのため長男子相続権があるヨセフにカバラを教授し、彼自身もその父シモンからカバラの教授を幾らかは受けていると明確に述べている。だがこの魔術体系は次男のラメクに授け、それは「カバラを教えなかった償いの類として明確に述べ」、この次男にはカバラを伝えるには厳格な伝統的な資格がないと述べている。これが事実ならば、アブラハムがラメクに、特定の印、ペンタクル、不可解な言葉などを用いる事への警告をしている理由も明らかである。なぜなら、それらのほとんどは、カバラの秘密を基礎としており、それらに無知な者が用いるのは、極めて危険であって、そこに含まれている秘密の術式を捻じ曲げる可能性が高い。オカルティズムの上級の学徒で、中世の魔術書、それが文書や印刷物のいずれにせよ精通している者ならだれでも、印、ペンタクル、ヘブライやカルデア語の名前が、数えきれないほど間違っているのを知っている。それらは、無知な翻訳と複写によって起きているものである。そのため、これらの歪んだ術式の使用によって、望んだ効果と正反対の結果を生み出す事もある程である(私はこの問題について、数年前に私が出版した「ソロモンの鍵」の我が注記で充分に述べている)。そのためユダヤ人アブラハムが自らの息子を魔術の書の危険な間違いから救おうと心配し、自らが述べたもの以外の魔術体系を軽蔑するようにしたいのも、私にはよく理解できる。また私が先に述べた魔術の象徴の意図しない曲解の他にも、多くの黒魔術のグリモアが、アブラハムが持っていたように息子の手にも渡る可能性も高いが、それらの象徴は多くの場合「意図的に」神名や印を曲解させて、悪霊を呼び寄せ、善霊を払うようにしているのである。


 本書の第3の書は、文字によるカバラの方陣で満たされており、それらは単純に多くのペンタクルであって、その中の名前は、これらに価値をなす主要な要素となっている。それらの中で、私は有名なSATOR AREPO TENET OPERA ROTASを見つけている。これは「ソロモンの鍵」のペンタクルの1つにあるものだが、アブラハムの術式は少しだけ違っている。


SALOM
AREPO
LEMEL
OPERA
MOLAS

 そして、これは乙女の愛を得るために用いるものである。
 我が「ソロモンの鍵」の件のペンタクルは土星の下にあるものだが、一方で上記のものは、金星の性質(愛)のために用いるものとなっている。
 私はヘブライ文字(付録Aのヘブライとカルデア文字の表を参照)での(ソロモンの土星のペンタクルの)同等物もここに記すとしよう。


ShAThVR
ARHPV
ThHNHTh
VPHRA
RVThASh

あるいは、ラテン文字では、


SATOR
AREPO
TENET
OPERA
ROTAS

 ソロモンの鍵では、(ペンタクルとして)2重の円の内側にこれは刻まれていて、この2重円の内側には詩篇 第72篇8節からの短詩「主は海から海まで治め、川から地の果てまで治めるように」が書かれている。このヘブライ語では、この短詩は正確に25文字、方陣の文字の数で構成される。またすぐに気づくだろうが、ソロモンの鍵にある方陣と、ユダヤ人アブラハムにより与えられているものの両方とも、二重折句、すなわち水平や垂直で前後いずれからも同じように読める文の完全な例である。だが「ソロモンの鍵」のペンタクルは、不運の値があり、霊らのプライドを抑えるためと述べられている。


 そのため、この例は、アブラハムが象徴的なペンタクルを、その無知からの曲解や相応しくない使用に反対していたために、多く用いていないのを明らかに示している。


 また、第3の書にある多くの文字の象徴的な方陣は二重折句の性質があるものの、また多くはそうではなく、そして多くの場合、文字は方陣を完全に埋めておらず*10、L字型のように配置されていたり、他のものは方陣の中央部が抜けていたりするのを見出せる。


 この前書きの付録C*11で、私は比較のために、他の情報源から取った天使招聘の幾つかの例を与えている。


 私が先に述べたように、ユダヤ人アブラハムはこのアブラメリンの神聖魔術のこの特別な体系は、その基盤がカバラにあると繰り返し認めており、この意味合いを検討するのは良いだろう。カバラ自身は多くの部分に分かれており、その大部分は神秘主義の教義の性質があり、ユダヤ教の旧約聖書の内なるオカルトの意味合いを与えている。またカバラはヘブライ文字の数値を用いており、2つの言葉の合計の値が同じである事により、これらが類似であると引き出す。この分野のみでも、最も複雑な学習を要し、その詳細に踏み込むのは、ここでの我々の目的にはほとんど関係が無い。これら全ての点については、拙著「ヴェールを剥がれたカバラ」で詳しく扱っている。いわゆる実践カバラは、魔術的な応用物の神秘的な教えによるものである。ここでは神名や天使名、天使、霊、悪魔の集団と位階、大天使、天使、知性体、悪魔の特有の名前の区分が、カバラの中では詳細に至るまで見いだせ、これらの知識によって不可視の世界で得られる照応、共感、反感の大きな理解を与える。そのためアブラハムが述べた意味は、この神聖魔術は完全に信頼できる事で、それはこの全ての属性が正しく、そのため作業者が名前や術式を誤って用いる機会はないからである。


 だがユダヤ人アブラハム(おそらくここでも、ラメクが混乱するのを可能な限り小さくするために)は、霊の2つの大きな区分、天使と悪魔のみを語っているのは注目に値する。天使は支配し、悪魔は支配される側である。そして他の膨大な霊的存在の種族については完全に考えない、あるいは記していない。例えばエレメンタルの霊らは、それ自身で無限の区分けがなされて、一部は善で一部は悪であり、さらにその大部分は善でも悪でも無い。また第3の書で得られると称している結果の多くは、悪魔ではなくエレメンタルの霊の使用を明らかに仄めかしている。アブラハムが明らかにそうであったような上位の達人らで、これらの存在、力、価値に対して無知な者はいない。そのため私はアブラハムがラメクにこの知識を明かすのを望まなかったか、あるいはそれ以上に無限に可能性があるのは、アブラハムはラメクがこれらの区分、性質、権能を完全に理解するための膨大な追加の教授によって、彼が混乱するのを恐れたからであると結論付けざるを得ない。第3の書の象徴の正しさから、間違いが起きる可能性を最小限になるので、その行動は理不尽では無い。さらに、アブラハムはラメクに、カバラの秘密の知恵よりも、実践的な魔術の結果にどのように到達するかを教えようと考えていた。


 これらの霊的存在の性質、善や悪について長い説明をするのは、我が前書きの範囲を完全に超えている。そのため私は天使、エレメンタル、悪魔の違いの原理について簡潔に述べるのに留めたい。


 天使はそれ自体に数えきれない権能と区分に分けられるが、一般的に以下の性質を有していると結論付けられよう。彼らはその自然と働きで完全に善であり、この物質宇宙の界での神の意志の常なる管理者であり、無責任な働き手ではなく責任があり、そのため堕天する可能性もある。また彼らは自然の無限の秘密の諸力の流れからは独立しており、そのため、これらを超えて働く。もっとも、彼らの区分と性質によって、特定の諸力を他よりも共感するようにさせ、それには様々な段階がある。また彼らは人、霊、エレメンタル、悪魔より力において上位にある。


 一方でエレメンタルは、こちらも無限の区分がなされているが、自然のエレメンツの諸力であり、その流れの管理者である。そのため、自らの特有の流れを超えて独立して働く事は決して行えない。そのためある意味で、彼らは自らが直接働く部分には責任があるものの、流れ全体の働きには責任は無いと言える。そのため、彼らは同時に力の一般的な流れに属するもので、そこで彼らは生き、動き、存在している。もっとも、彼らが直接動かしている部分では、上位にある。この種族は、人よりも直観と魔力に秀でており、他の部分は劣っている。そしてエレメントの特有の流れで、それらの力は人よりも上位となるが、そのエレメントの性質を共にしているのみの部分では低位となる。彼らは古代の神話全てて何度となく繰り返し見つけられる。北欧神話のドワーフとエルフ、ギリシア神話のニンフ、ハマドリュアス、その他の自然霊、我らが子供時代に聞かされていたおとぎ話の善や悪のフェアリーたち、人魚、サチュロス、ファウヌス、シルフ、フェイの群れ、という具合にである。黒人の呪術師が引き付けたり宥めたりしている諸力は、殆んどの場合は、この偉大な種族、エレメンタルの間違って理解された発現以外の何物でもない。これらのうちの一部は、私が先に述べたように善である。例えば、薔薇十字哲学にあるサラマンダー、ウンディーネ、シルフ、ノームである。だが多くの者らは怖ろしく有害であり、あらゆる種類の悪を喜び、秘儀参入されていない者らには、悪魔と容易に誤解されるが、その違いは彼らの力はより劣っている。そして大部分は善でも悪でもなく、猿やオウムが働くように、どちらにも不合理に働く。事実、彼らの性質は動物、特に複数の動物の結合体に似ていて、その混ざり合った形は、彼らの象徴的な発現である。別の大規模な集団は、非合理的には働かず、意図があり、彼らの傍にある者らの善と悪の支配的な考えに常に従う。例えば、この種の霊は善人の集まりに引き寄せられたら、彼らを善へ向けての考えに刺激するよう働くだろうし、悪しき心の集団に引き寄せられたら、彼らの心の中で犯罪を刺激するであろう。「彼らは何かが犯罪を犯すように耳元で囁いていたと言っている」が言い訳で無いどれだけ多くの犯罪者がいようか! だがこれらの示唆は、常にエレメンタルから来るものとは限らず、悪人の死者の堕落したアストラルの残存物からもよく来るのである。


 一方、悪魔はエレメンタルよりも遥かに強力であるが、その悪のための働きは、良き天使らの善に向けてのものと共通している。そしてこれらの有害さは、悪しきエレメンタルのものよりも、遥かに恐ろしいものである。それらはエレメンタルのように特有の流れの限界に従っておらず、その活動圏は遥かに大きな領域に拡張しているからである。そして彼らが行う悪は非合理的や機械的なものではなく、完全に意識的で意図ともに働いている。


 私はアブラハムの霊に対しての行動の助言には、完全に同意していない。反対にエクソシスト(実践者)は霊への最大限の礼儀は行われるべきで、それらが頑固で反抗する場合にのみ、より厳しい手段が取られるべきであるという意見を、真の秘儀参入者らは常に維持している。そして悪魔に対してすら、我々はそれらの存在だからと咎めるべきでは無いのである。これらに反した行いは、魔術師を過ちへと導くのが確実だからである。だがアブラハムは、ラメクに対してエクソシズムでのこれらが生み出す危険について、少しといえでも警告する意図があったのであろう。


 本書では「デーモン」の言葉が、悪魔デヴィルと同義語として明らかに用いられている。だが、最も博識な者らは気づいているように、これはギリシア語の「ダイモン」から来るもので、古代ではこれを善悪関係なく単純に霊の意味で用いていた。


 高名な「千夜一夜物語」には示唆的な魔術の引用に満ちており、興味深いことに、本書の第3の書にも、似たような効果を生みだすための幾つかの傾向があるのに気づく。例えば、第3の書の第9章では、人間を動物の姿に変えるための象徴が記されており、それは「千夜一夜物語」での「最初の老人と雄鹿」、「バクダッドの3つのカレンダーと5人の乙女」、「ベデルとギアウハレ」の物語など、最も一般的な出来事の1つである。魔術師が自発的に別の形へと変身する話は、「第2のカレンダーの物語」の中に示されており、我らが第3の書の21章でそのための象徴が与えられている。


 またこれらの第3の書の各章を読んでいる我が読者の多くが、ファウストが生み出したと言われる奇跡的な魔術の効果を思い出すであろう。ちなみにこのファウストも、私が先に述べたように、ユダヤ人アブラハムと同時代人であった可能性が高い。


 だが本書にあるそれらの結果は、著者が何度となく非難している悪魔崇拝や黒魔術の契約の類では無くカバラ魔術の体系であり、それらは「ソロモン王の鍵」や「ラビ ソロモンの鍵」と似ているが、その違いは先に聖守護天使を招聘するか、今述べた2冊では魔術の円によって各召喚で天使らが個別に招聘されるかの違いでしかない。彼の体系のように、これらはカバラの秘密の知識に拠るので、アブラハムは非難する意図は無かっただろう。さらにこのカバラ自身も、偉大なる古代の知恵、エジプトの秘儀参入魔術の体系より来ていたのである。カバラと現代エジプト学を両方知る学徒は、カバラの起源が明らかにこの密儀の国、神々の故郷から来ているのを見出しているだろうからである。その象徴や区分は、聖なる諸儀礼の中に顕著に表れており、現代に至るまで魔術の多くのレシピがこれらから降りてきているのである。このため我々は、真の古代エジプトの魔術と、近年のエジプトに広がっているアラブ人の考えと伝統とを慎重に区別しなくてはならない。私が思うに、博識なレノルマントが著書「カルデアの魔術」で指し示しているのは、カルデアとエジプトの魔術の大きな違いは、カルデアの魔術師は無論、霊を招聘するが、エジプトの魔術師はエクソシズムで霊に命令するために、自らを神々の名前と性質と結びつける事にある。それにより魔術師は神々の自然と力の重要な知識を知るのみならず、それらへの自らの信任を確言し、呼び出す諸力を支配するための助けを訴えるのである。言い方を変えれば、考えられる限りにおいて最も深遠な白魔術の体系である。


 次の注目に値する点は、アブラハムは祈りと召喚の両方で自国の言語を好んで用いるよう主張している事である。その主な理由は、唇から形成するものが、魂と心の全てにおいて完全に理解する絶対的な必要からである。その必要性については完全に理解つつも、私は自らの母国語以外の言語を用いる事の利点についても幾つか理由を述べたい。まず最初にして主要なものは、心が作業の高次の様相へと向ける助けとなる事にある。違った言語で聖なる言葉が用いられたら、それらの文は日常生活の事柄を示唆するものではなくなる。次に、ヘブライ語、カルデア語、エジプト語、ギリシア語、ラテン語などは、適切に発音するならば、ほとんどの現代言語よりも、ヴァイブレーションで朗々と響き、その周囲の環境をより荘厳としたものにする。また、魔術の作業は日常の場所から遠く離れるほど、より良くなる。だがこれら全ての前に、作業者は自らの祈りや召喚文について完全に理解しておくべきであるというアブラハムに私は完全に同意する。さらに、これらの古代言語の言葉には、現在言語よりも容易に「照応の術式」を含んでいる。


 魔力を受け取る均衡物と適切な基盤として、ペンタクルや(方陣の)象徴には価値がある。だが作業者が真にこれらの諸力をペンタクルなどに引き寄せない限り、これらは死んだ、価値無き図形でしかない。だが、これらの意味合いを完全に理解した秘儀参入者により用いられたら、これらは強力な保護、自らの意志の働きに従い集中するための助けとなるであろう。


 私が別の場所で述べた事を繰り返すリスクを犯しつつも、オカルト学徒に魔術の円と霊の退去についてユダヤ人アブラハムが言った事から、間違った判断をなす事への警告をしなくてはならない。アブラハムが記すように、霊の召喚で防衛と守護のために魔術円を形成するのは不可欠では無い。だが何故か? なぜなら、寝室、祈祷室、あずまやの全体が、先の6ヶ月の準備の儀式によって聖別されているからである。そのため場所全体は守護されており、魔術師はあたかも魔術円の中に常に住んでいるようなものである。またそのため、退去の許可は、大部分がこれらによって行われている。なぜなら霊らは家の周囲の壁の聖別された限界を破る事が出来ないからである。だが、通常の召喚儀式を行う作業者は、自らの場合はそうではないと知るべきである。聖別されていない場所で、防衛のための魔術円を描く事なく召喚をなし、アマイモン、エギン、ベルゼブブといったような恐るべき力ある者らを見える姿で呼んだとしたら、エクソシストの即死となる可能性が高い。そのような死は、癲癇、卒中、絞殺の症状として現れ、それらは状況によって様々である*12。また円をひとたび造ったら、それらを通過したり、止まったり、それらを超えてもたれたりするのに対して、霊を退去させるまでは、エクソシズムの期間、召喚者は慎重に避けるべきである。これらから、さらに他の原因からですら、円が中の全てのものや効果に働く絶対的な環境の条件を創り出し、円の中で力の違った状態を刺激する事で、円の外のものにも及ぼす。そのため、霊による悪意あるオカルト活動が無かったとしても、突然で予想しなかった環境の変化は、召喚者にその激しい神経の緊張から危険な効果を及ぼすであろう。また退去の許可も省くべきではない。なぜなら不注意にも霊を退去させる前に円を出たら、悪の諸力に使役していた作業者に復讐をする喜びを与えるのみであろうし、場合によっては、反対の呪文によりこれらを強制的に退かせる必要もある。


 この神聖魔術の作業を、君主や権力者には与えてはならないというアブラハムの意見には、私は同意しない。オカルティズムの偉大な体系の全てには、それ自身によるオカルト衛兵があり、彼らはそれらを改竄し悪用した者らにどのように復讐するかを知っている。


 繰り返しのリスクを犯しつつも、私は再び、第3の書にある一部の魔方陣には、自動的な性質の危険があると、学徒に心から警告をしたい。注意を払わずに置いておくと、これらは感受性の強い人物、子供、動物にすら(強迫観念を)憑りつかせる傾向が高い。


 アブラハムの常識による占星術や惑星時間の属性の間違いについての話は、傾聴する価値がある。だが私は、惑星時間の「通常の」属性はある程度は効果的であるのを見つけている。


 全般的に、本書の文には理解が困難や曖昧な部分は無いが、私は豊富な説明の注記を付け加えておいた。そのため注記の集まりを形成するまでになった。特に、霊の名前については、その源を探る困難さから私は驚くほど苦心する羽目となった。同じ事は第3の書の象徴らにも言えるだろう。


 実際の文の中で括弧を用いた部分は、その意味合いを明白にするための言葉や文を示している。


 結論として、私は正当なオカルト学徒の助けとして、純粋にそれのみに、この説明の前書きを書いたと言える。そのため、オカルティズムを理解も信じたりもしない一般の文芸批評家らの意見に対しては、私は相手にするつもりはない。


 パリ オートゥイユ区モーザール通り87番地より


アブラメリン 1 序文
↑ アブラメリンの書


*1 21世紀現在では、100万の印刷書に、1万2千の文書がある。
*2 マサース注。この時代の多くの魔術文書の著者であった魔術師ギオ ピカトリクスと同一人物であった可能性が高い。
*3 マサース注。これらを書いた時から、少なくとも部分的、おそらくは全体の複写したものが、オランダに実在すると聞いている。
*4 新訳版の編者デーンによると、このラメクは実在が見いだせず、この名は読者全体へ向けての象徴であろうと述べている。
*5 新訳版の編者デーンは、この著者は、ラビ ヤアコブ ベン モーシェ ハ=レヴィ モエリン、通称はマハリル(MaHaRIL)として知られる、この時代に高名だったユダヤ人タルムード、律法学者(1365年 - 1427年)のペンネームと考えている。ただ、これにも反論がある。
*6 ダニエル記 第5章にある、ベルシャザール王の宴で突然に壁に神の指により文字が書かれた話。多くの賢者が解読しようとしたが出来ず、ダニエルによって明かされた。
*7 神があなたの治世を数えて、その終わりに至らせた。あなたは秤で量られ、その量が足りない。あなたの国は分かたれて、メデアとペルシア人に与えられる、の意味。
*8 マサース注。付録Bを参照。
*9 マサース注。1250年頃に生まれる。
*10 マサースの参照したフランス版の欠陥である。ドイツ版では全て埋められている。
*11 マサース注。付録C「天使招聘の例」を参照。
*12 マサースは見てきたように言うが、そんな話は過去にも現在にも聞いた事も無い。まるで都市伝説である。今では、円を使わない主義の多くのゴエティア魔術師らがいるが、誰も作業中に死んだ話は無い。