輪廻を卒業しよう! 真我のハイリアリティ

ページ名:1

近年は地球文明の絶頂期を迎え、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで宇宙の法を理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 蓮の花は泥沼から咲く♪

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを確信させられた、一連の不思議な?
経験(10数年前)を元にして、関連書籍などを参考にし、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

当サイトは宗教的なこと、主に 人間存在の真実 について書いてます。この分野では、ある理由から
それをオブラートに包んで表現する傾向にあり、それは仏教にも言えます。 しかし仏教が興った
約2500年前とは時代・世相が異なることと、近年ではオブラートなしで表現する覚者・解脱者たちも
見受けられることも参考にし、当サイトでは極力、真実をストレートに表現することを心掛けてます。

★あなたは運命に定められた通りに、0.1秒のズレもなく「この文字」を読んでます。

★当サイトでは、「ハイリアリティ」=「至高の実在、真我、霊魂、真の現実」

「リアリティ」=「仮想世界(幻想性)、リアル感、本質」 と独自の意味で使います。       2019.09.01

<見出し>
◎ 人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ)
◎ 真我探求のリアリティ
◎ 仏教とハイリアリティ(実在、真我、霊魂)
◎ いろは歌の解釈について・・終末メシア論(※オカルト)

人間存在の真実 & 輪廻のゴール(まとめ)

◆この世界はいわば、共同仮想現実、完全なリアル体験ができる VR のようなものである。
映画「マトリックス」は、まさにこれを裏テーマにしてる。(※「心」のトリックの世界、詳細後述)

◆現れた世界のすべては全自動の因縁生起プログラムによって動いていて、ほんとうは個人的行為者は

存在しない。 ほんとうは 私たち は、現れた世界の中には、いない。(自分の体験から 100% 確信)
どんな高次の存在がいたとしても、それも人間同様にプログラムで動いてると思われる。
★【参考動画】行為者が存在しないことを窺わせるシーン(トランプ大統領とシンプソンズ)

◆人間は自我の催眠作用によって、本当はプログラムどおりに動いてるのを自分の意思で心体を動かしてる、と感じる催眠状態にある。 言い換えれば、行為者としての自己感覚を「自我」と表現できる。
◆しかし仮想世界の中では、行為の責任が個人に負わせられるのは倫理上しかたのないこと。


◆人生は、錯覚の中に仮設された偽りの行為者(=自我)が行為の責任を問われ、または賞賛される、
という不思議なジョークであり、挑戦状でもある。 すべての現れは「仮想宇宙意識」の戯れであり、
人間の意識もその深層の宇宙意識の一部。(※その「幻想・錯覚」を解除せよということ)

このサイトでは一部で否定的な表現もするけど、ある意味では、くそ最高のジョークです。
アドヴァイタ哲学(不二一元論)ではこれを、「リーラ(神聖遊戯)」という。
◆本質的には、仮想意識の中に世界と人間(仮の自己)が現れ、霊魂(真我)の「私?」という存在感覚が肉体と自我に同化する。 このうち、自我への同化のことを「自我の催眠」と表現できる。
◆生存中に自我のシステムに何らかの強い力がかかって「自我の催眠」が解除されるケースがあり、それがいわゆる悟りを開いた(解脱した)人たちで、彼らは今生で輪廻転生を卒業する。
◆縁起の法則は、あらゆる二極性の振動、愛と苦痛の人間ドラマを仮想世界に作り出す。

◆縁起のシステムは、その根源プログラムに「秩序」「遊び心」「混乱」と関連する原理的要素が存在
しており、「メタファー(隠喩)」「ジョーク(悪ふざけ含む)」「ドラマチック」 が好きである。


◆人間が体験するできごとは、自分の深層意識に保存してある過去の行為のデータ、または集合意識から分配された?データのどちらかを使って現象化してる(※ほとんどは過去の行為のデータ)。

◆人間関係で気をつけたいのは、自分と相手の「心」はどちらも両者が持つデータの二重投影であり、
両者の深層意識のデータ(1つとは限らない)を使って、心・体のすべての動きが定められる。
「二重投影」と表現したが、両者のデータはパズルのようにぴったり合致するものが使われ(=運命)、両者ともに自分のデータの分だけの体験をする。 なので、自分に関わるできごと(※自分の心体の動き含む)は、基本的には自分が持ってたデータの反映、とみるのが妥当。

◆このデータは主に前世から現在までのもので、現象化されれば消えるが、ネガティブ現象においては
それと戦ってしまう自我の防衛システムによって、新たなネガティブデータが保存されやすい。

◆保存されたデータが現象化するまでの時間はさまざまであり、深層意識の状態と運命にもよるが、
おそらく平均的には人生の全行為の1/2以上は来世に持ち越される。

◆あらゆる苦しみの根本原因は「自我の催眠」にある、と見抜いて賢く行動すれば、深層意識が直感的な深い洞察をその心に投影するようになる。真実はあるていど保護される設定になってる(※長期視点)。


◆この仮想プログラムは自然発生的に起こっていて、厳密な意味での巨大な知性を持ったプログラマー
(創造神)は存在しないが、神的インテリジェンスを含む原理が一切万物に浸透してる(八百万の神)。
◆高次の視点で見れば、物事の運命は先々まで定まってる可能性がある。少なくとも起こることはすべて定められた運命だが、私たちは、真の自己である「気づき」を自覚することにおいて自由がある。
◆すべての二極性は根本原理において表裏一体であり、輪廻の中に現れるあらゆる状況は時間の中でバランスをとる。 原則的には、下がったものはやがて上がっていき、上がったものはやがて下がっていく。

(時計の振り子運動のように、慣性力とそれに逆行する位置エネルギーのような力が働く)
原理的に極端に表現すれば、輪廻とは、仮想意識の中で同化する肉体を変えられ記憶をリセットされながら、全自動で延々とこのような運動が繰り返されるものであり、人生はその中の一片である。

◆「宇宙の法」は完全に状況に応じて、きわめて流動的に複雑に作用するのであり、ある行為における
徳・罪の判定(甘さ・厳しさ)は、周りの状況と行為者の(人生の)境遇、さらに心の動きも関与する。


◆人間が何か新しいことを始めたり、行動するにあたっては、「動機」が重要な要素 となる。
純粋な欲は悪くないが、表面的には、他者の利益のために行為すべき(※自分の利益も含まれてよい)。
動機がよければ、物事が即座にうまくいかなくても必ず後に良縁がつながるようになってる。

そして本質的には、あらゆる行為は行為自身のためになされるべき(※実際は全ての行為は既にこれ)。
なぜなら、ほんとうは分離した他者は存在せず、私の心体の行為は私に対して起こっているのだから。
あるいは、至高の神(≒ 私たちの真我)のためにすべての行為をなす、でも良いだろう。

関連:因縁生起 & 賢い生き方、悪人正機について(別ページ)


◆人間の知性は創造プロセス(無智)により生じる産物で、プロセスの源が私たち(真我、真智)であるため、人間は創造プロセスを評価する立場にはなく、真に求められてるのは解脱して幻想の源を自覚すること。

◆現れた世界は心のトリックを使った「幻想」であるため、条件さえ整えばどんなことでも起こりうる。
たとえば、いつか人類がDNAレベルで進化してハイレベルな霊的地球文明が誕生する可能性もあるが、
それでもそれは、「人生、という問題」の根本解決ではない。 詳細:人類の運命(別ページ)

◆「現時点」の人類のDNAシステム と自然界のエネルギーバランスでは、生きながらに自我の催眠が解けて
解脱(真我実現)するのは全体的には未だ稀なケースと言わざるを得ないが、しかし、明らかに増加して
きてはいる(一般人でも)。つまり、現在その転換期にさしかかってる可能性が高い。

◆人類が、「行為者はいない、すべては全体性の仮の現れ」のような世界観を本格的に受け入れ出せば、人類の運命の本格的な転換期を迎えるのではないか? と個人的には推測する。

詳細:行為者は存在しない!~パラダイムシフト~(別ページ)


◆仮想縁起プログラムは、人間の根本的誤認(錯覚、原罪)を「幻想ショー」をとおして指摘しつづけて、

ついに輪廻を卒業(解脱)させる、というプログラム設定になってる。 (★参考:後述の「サーンキヤ哲学」)

◆輪廻の卒業に関しては、ある程度以上に輪廻経験を増やしても意味がなく、システムの全体像の理解幻想プログラムを卒業する緊急の必要性が、プログラム上(人の心)で起こることが重要とされる。
(=運命) それらが起こって行動を伴えばその方向で縁がつながっていく。 現時点で多くの人には、
まずこのシステムの理解が起こらないために、あまり意味はなく輪廻が継続されてる可能性が高い。


◆幻想プログラムを卒業する強い決意とともに、「個人は行為者ではない」ということを実生活に即して熟考し、自我主体の行為をひかえ、ハート主体の行為を心がけて深層意識のデータを浄化していき、

「すべての認識の対象(世界、体、心、つまり意識の内容物)は幻想(≒夢に見られてる側)」

ということだけを確信してなるべく欲望・執着を放棄して死ねば、死んだときに輪廻(幻想)を卒業してニルヴァーナのハイリアリティ(真の現実)に目覚める可能性が高い(※自殺を勧めてるのではない)。

「仮に」輪廻したとしても、深い洞察と良縁に恵まれた好ましい流れの運命を享受できるはず。
人生の中で「来世」という可能性を少し考えて行為するのは理にかなってるかもしれないが、臨終間際にその概念(イメージ)を持ってしまうと卒業を妨害する可能性がある。(★詳細次ページ≫ 行為者は~)


◆しかしながら、本当はハイリアリティは誰にとっても今の瞬間に存在する(催眠で気づかない)。
眉間の後ろのほう(脳の中心)とハートの中心に全てである真我(≒無)への入り口があるが、その感触はたいてい味気なく感じられ、よく無視される。 幼い純粋な子供はその感触をおぼろげながら感じてるため、自己と世界の関係性が親密である。 その入り口から深く入っていくためには、心(表層・深層)を整えて執着(とくに自我への)を放棄することが要求される。(※幻想視点)

しかし実際は誰もがつねに意識の観照者(真我)であり、錯覚が起こってるだけ。心の浄化が十分なら、「私たちは意識を体験してる側だ!」 ということに繰り返し注意を向ければ、すでに真我だったことに
即座に気づくこともあり得る(=解脱、輪廻卒業確定)。(※実在視点)


◆生きながらに催眠が解けて解脱した場合、「自我」への同化は解除されるが、「肉体(心)」への同化は必ず残る(※肉体同化の解除は「死」を意味する)。この場合、メインの自己感覚は真我の側になり、人間としての自己感覚は、非個人的な無限の真我が幻想内に反映された小さな側面となり、自分が人間であるとは感じなくなる。 この状態は「私(自己)がない」などとも表現されるが同じこと。
また、自分が行為者(行為の司令塔)であるという感覚は消失する(すべて自動的、自然体)。
この状態は非常に現実的なパワーがある(※縁起の観点)。あえて肉体レベルに焦点を合わせれば行為者の感覚が起こるが、「それは偽りだ」という感覚が同時に起こる。 メンタルシステムの最大の障害物である自我が抜け落ちるので、心は エナジー と喜びに満ち、常に現在の瞬間を直感的に的確に捉え、慈悲深く注意深く道理に適った振る舞いを自動的にするようになる。 ネガティブ感情も起こるが幼子のように
速やかに消えていく(※それを掴む「私」がそこにいない)。自分のことでは精神的には悩まないが、
人々が苦しむのを見て胸を痛める。 肉体的な痛みは、肉体レベルでは普通の人と同じように感じるが、同時に真我の位置からの観照が起こる。つまり、「苦しむのは幻想内の心や小さな自己(=肉体同化)
であって、メインの自己(=真我)はこちらから観てる」 という、あるいみ矛盾した認識状態。

◆なお、解脱してなくても心を浄化して、霊魂の「 認識力・気づき 」が意識内に反映された純粋な部分
(=観照意識)を自覚できれば、一時的な観照が起こるようになり、「自我の催眠」の概要が感覚的に
わかる。すなわちその状態では、主体(=観照意識)と客体(=意識の内容物)はいまだ分離してるが、
客体の中の偽主体(=自我)が「偽り」であることは、おぼろげながら理解される。

※「観照」とは、心の動きに影響されずに超然として意識の内容物を観ること。
観照してるときは、思考・感情に巻き込まれることがなく、即座に切り離される。(※解脱者は常時)


◆人生とはいわば、映画を見てるようなもの。私たちは本当は真っ白なスクリーン(=ハイリアリティ)であり、その中の小さな点(=霊魂)でもある(※実在の側は論理が通用せず)。その小さな点が、
登場人物の視点から映画の中の世界を見てる(衆生本来仏)。自由は、その自覚を取り戻すことにある。

つまり、人間はいわば夢に見られてる側であり、「私?」は夢を見てる側であり、ほんとうの意味では
誰も生まれず、誰も死なない、誰も何もやってない。 「自分が世界の中を動き回ってる」という感覚は
催眠によるもので、実際はハイリアリティの現実の中で霊魂の前に仮想意識とともに仮想世界が現れて、
霊魂が同化した人間(仮の自己)がプログラムどおりに動き回ってるようなシーンが現れる。

言い換えれば、真実は私たちは意識を体験してる側(主体)であり、意識とその内容物はすべて客体で、同時にそれは主体が化けたものなのだが、自我の催眠システムはその客体の中に偽りの主体(仮の自己)を設定するので、催眠が解ければ、時間と空間を超えてここにある原初の状態を自覚できる(=解脱)。

※解脱後も肉体への同化は必ず一部残るが、催眠下ではそれがすべてになってるということ。
※本当は誰もが常にその原初の位置にいるから世界を認識できるのだが、錯覚が起こってるということ。


◆厳密に言うなら、「世界(心・体ふくむ)」というのは、深層の集合意識から各人の表層意識に投影
されるイメージ・現象であり、感覚器官が捉えてる(との設定で投影される)部分以外は現象としては
存在しない。しかし勿論、各人に現れる世界は通常は完全リンクし(共通の舞台設定)、いま現れてない

部分も深層意識内にそのデータ設定は存在するため、「人類共通のこうした世界体験が確かに存在する」

として問題ないが、少なくとも 物質世界 は実在せず、「世界 =(共通の)体験」が存在するのである。
つまり、意識とその中に現れる時間と空間の仮想世界(=体験)は、
意識(心)という 神業的な幻術装置 を使うことによってのみアクセスできる仮の世界」 であり、
世界はどんなに物質的に見えたとしても、それは霊的なものであると言える。 もっと言ってしまえば、
意識とその全内容物(自分の心体ふくむ全宇宙)はいわば、全自動で動く1体のオバケである。

なお、「世界(対象)」「体験(認識)」「体験者(心)」「気づき(意識への)」の各要素について、
「体験」は「気づき」の副次的要素のため真実度が高いが、「世界」と「体験者」は「気づき → 体験」
に含まれ、幻想度100%である。 つまり、「体験者」が「世界」を「体験」してるという感覚は錯覚で、
「体験(認識)」があるときのみ、付随して「世界」と「体験者」(=幻想)が現れる。(※詳細後述)

ほんとうは、私たちは仮想意識(神聖遊戯リーラ)を観てるだけで誰も何もやってない。(100%断言)

仮想世界の構成成分は、ある意味では意識(表面的には個人の顕在意識、本質的には宇宙意識)だが、
それもハイリアリティ(実在)の現れ。なお、真我を「意識」と表現する覚者もいる(※別次元意識)。

「世界とはマインドの表面だ。そしてマインドは無限なのだ」 by ニサルガダッタ・マハラジ
「人は幻想世界の本質を無視する」 by ルパート・スパイラ(下記「覚者たちの言葉」より)

by ニサルガダッタ・マハラジ 《「I AM THAT 私は在る」P471 より》
あなたは世界に属するのではない。あなたは世界の中にいるのでさえない。世界は存在しない。
あなただけが在るのだ。あなたは想像の中で世界を夢のように創造している。あなたがあなた自身を夢から
分離できないように、あなた自身から独立した外側の世界をもつこともできないのだ。独立しているのは、
世界ではなくあなただ。あなた自身が創造した世界を恐れてはならない。幸福と実在を夢のなかで探そうと
するのはやめなさい。そうすればあなたは目覚めるだろう。すべての「なぜ」や「どうして」を知る必要は
ない。質問には終わりがないのだ。すべての欲望を放棄しなさい。マインドの沈黙を保ちなさい。
そうすればあなたは発見するだろう。

《「I AM THAT 私は在る」P358 より》

▼質問者

私は何か絶対的真実からはじめなければなりません。そのような何かがあるでしょうか?

▼マハラジ
ある。それが「私は在る」という感覚だ。それからはじめなさい。
▼質問者
それ以外の何も真実ではないのでしょうか?
▼マハラジ
ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。一時的なものは神秘的だ。

※これ(↑)は後述の「釈迦いわく(有・無 と中道)」と同じようなこと言ってる。

▼質問者
私は実在は神秘的なのだと思っていました。
▼マハラジ
どうしてそうありえるだろう? 実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして喜ばしいものだ。それは矛盾からの完全な自由なのだ。それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく創造的だ。存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。


▼質問者
もしものごとの形が単なる現れでしかないなら、実際には、それらは何なのでしょうか?
▼マハラジ

実際には知覚だけがある。知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実が現実のものだ。

▼質問者
絶対なるものはどこから来るのでしょうか?
▼マハラジ
絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。それが知覚を可能にするのだ。
しかし、分析のしすぎはあなたをどこへ導きもしない。あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の
核心がある。あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。日常生活のなかでそれを表現しなさい。そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。


▼質問者

すべての宇宙のなかには、ただひとつでも価値あるものがあるのでしょうか?

▼マハラジ

ある。愛の力だ。


◆まとめると、次のようになる。

『 人間という存在自体が、良い・悪い、を論じる以前に完全にジョークである 』

『 私たちはほんとうは意識の観照者で、意識内のすべては全自動のリーラ(神聖遊戯)である 』

『 私たちが体験する世界は、ほんとうは、自分の?心(深層意識から投影、各人リンク)である 』

『「個人的行為者」「分離の物質世界」は幻想・錯覚で、すべての動きは縁起プログラムによるもので、

すべては私たちの統一生命、真の現実、源泉である ハイリアリティ の仮のあらわれ 』

◆いずれ人類は、こういった「世界観」を公然の事実として受け入れていく流れになると思われる。
もしそうならなければ、下の「覚者たちの言葉」で言われてるように、500年も存続できないだろう。

人類と言わずとも個人でも、これを深層意識に染み込ませれば、因縁生起パターンが変化していくはず。
つまり行動を伴って良縁が繋がれば、よい意味での霊的人生になっていく。

◆人間はこの「リーラ(神聖遊戯)」を評価する立場にはない、とも言われるが、あえて一言感想を。
これは悲劇であり喜劇でもあり、どこまでも「本気」の、神秘的で美しく面白すぎる糞ジョークである。
もし、これを考案した神的存在がいたとしたら、人知で計り知ることはできない最高のキチガイである。
世の中のいろいろな局面や、真面目に書いてるこのサイトも含めて、これは只の「お笑い」にすぎない。


詳しくはこちらのページ(別タブで開く)
ここでは一部紹介します。

ニサルガダッタ・マハラジ(近代の覚者の中でも前衛的な巨匠。タバコ屋の親父)

★私は意識とその意識の中に起こることは何であれ、巨大な詐欺にすぎないという結論に至った。
この詐欺を犯している人は誰もいない。それは自然発生的な出来事だ。この詐欺の犯人は誰もいない。
《「意識に先立って」P228 より》

★意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超えることが可能なのだ。そのとき、あなたは突然
意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入らない状態にいる。

《「I AM THAT 私は在る」P400 より》

★私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすことだ。なぜなら記憶が
想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。

《「I AM THAT 私は在る」P434 より》

★すべての闘争の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。それらから自由になりなさい。そうすれば、あなたは闘争から解放されるだろう。

《「I AM THAT 私は在る」P433 より》

★マインドと世界はひとつだ。あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。

《「I AM THAT 私は在る」P521 より》

★なぜパラブラフマンは、この顕現世界のこれほどの贅沢や苦しみをもつ余裕があるのだろうか?

それはパラブラフマンにとって、これが存在していないからだ。(※パラブラフマン = 至高の実在)
《「意識に先立って」P130 より》

▼質問者
あなたの国の人々はカルマや因果応報という言葉を使います。
▼マハラジ
それはただ総体として真実に近いというだけだ。 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。(P434)

▼質問者
あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?
▼マハラジ

無反応だ。(P201)

《以上、「I AM THAT 私は在る」より》

<ニサルガダッタ・マハラジの貴重な動画(※「字幕日本語」クリック)>
https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw
https://www.youtube.com/watch?v=6udBygDdWuE

ラメッシ・バルセカール(上のマハラジの弟子。師匠とは表現が異なり、さらに前衛的)

★存在するすべては意識です。あなたと私はこの空間に投影されている単なる対象物にすぎません。
空間と時間は単なる観念、対象物が拡大されるためのメカニズムにすぎません。 三次元対象物が拡大されるためには、空間が必要です。そして、その対象物が観察されるためには、時間が必要です。

その対象物が観察されないかぎり、それは存在しません。 空間と時間は単なる観念で、ある現象が

起こり、観察されるために創造されたメカニズムにすぎません。

★悟りが意味することはただ、個人的行為者という感覚が消えることだけです。すべての行為は全体性の行為として見なされます。(P111)
★脳は自力のない物質です。脳はどんな思考も作り出すことはできません。脳は外から来る思考に反応して、巻き込まれるだけです。(P136)
★悟りのあとも、その肉体精神機構は肉体精神機構であり続け、それは自分自身の自然の特徴に従って、外側の思考や出来事に反応します。でも、その反応がわき起こる瞬間に、それは観照され、切り離されます。水平的に巻き込まれることがないのです。(P285)
《以上、「意識は語る」より》

ルパート・スパイラ

「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提として生まれます。これは 架空の立場 です。
私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると
知っている立場は、叡智と啓示の立場 です。
そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると知っている立場は、愛、純粋な親密さの立場 であり、ここにおいては内側の自己も、外側の対象物、他者、世界も存在しません。

私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」
という三つの選択肢しかありません。そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができます。選択次第で、私たちの体験は、選んだ立場を反映するようになります。体験は、私たちの立場を裏づけるのです。

《「プレゼンス」P267~268 より》

<動画> 死、そして肉体は物質であるという考え
https://www.youtube.com/watch?v=IoJc9TCBbTI

物質というもので作られた肉体と呼ばれる独立・分離した物体は存在しないのです。それは決して物質と呼ばれるもので出来ていません。それは意識の中に現れるイメージにすぎない。

言い換えれば、肉体と呼ばれるものは消えてもその真の現実は消えません。黄檗宗の教えはそのことを言っています。「人は幻想世界の本質を無視する」 私達の経験は幻想ではなく現実ですが、世界が物質と呼ばれるもので出来ているという信念は幻想です。そして私達は意識という経験の本質を無視し、代わりに物質という幻想を信じているのです。

もし人類がこの先5千年以上続いたら、その頃の人達が比較的短いこの物質主義の時代を、今の私達が中世の暗黒時代を見るように、「当時の人達はこの素晴らしい経験が物質と呼ばれる生命のないもので出来ていると本気で信じていたのか?」ととても驚くでしょう。その話を信じないと思います。

もし人類が500年後に続いていなければ、それは物質主義の勝利を意味します。
人類は物質主義パラダイムでは生き残れません。自らを破壊してしまいます。それが定めなのです。そう、今まさにそれを目の当たりにしていますね。

ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ界の大物中の大物。典型的な聖者・賢者キャラ)

本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽りの同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。それが誕生と言う連鎖をもたらしたのである。だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおとずれ、唯一永遠の真我に明け渡す時が来るのだ。
《「あるがままに」P341 より》

「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)

★諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素(グナ)によりなされる。我執(自我意識)に
惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。
★しかし勇士よ、要素と行為が自己と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して
働くと考えて、執着しない。(P46~47)

東西占星術研究所

http://tozai-astrology.com/contribution/karma01.html
アカルマは、最終的に解脱へと導くカルマである。ここでいう解脱とは、苦しみ多き輪廻(生まれ変わり)の世界から脱却することである。完全に現世を放棄し、行為の果報に対する欲望を完全に滅した状態で、ある行為がなされる場合、それはアカルマとなる。

http://tozai-astrology.com/contribution/karma02.html
偉大なヨーギーはプララブダ・カルマによる苦しみを喜んで受け入れるように忠告する。そして、唯一自由に行動が出来るクリヤマナの領域では、良い行いをなし、慈善をなすように忠告するのである。そして、もしその忠告にしたがって、プララブダ・カルマによる苦を喜んで受け入れることができれば、そのカルマは魂を解脱へと導くアカルマとなる。

※「プララブダ・カルマ」=今生で経験することを運命付けられたカルマ
※「クリヤマナ」=今生で作るカルマ(※見かけ上の自由意志あり)


真我探求のリアリティ

★私は解脱してないけど、関連した一時的な体験が少しと、「行為者は存在しない」ことを確信させられた
一連の不思議な?経験があり、そのことと覚者たちの教え(本など)を元にして、推測を交えて書いてます。(自分の中で整理する目的もある) ここで書いてる「見解」が正しいとは限らないことを断っておきます。

なお、この分野における真の価値は「真我実現」のみです。概念的知識は単なる道しるべに過ぎず、何かしらの方法を実践するほうがより重要です。 しかし、論理的解説が直感に響くことはあります。
また、「世界観」や「特定の概念」を繰り返し考察して深層意識に染み込ませることで、因縁生起のパターンが少し変化することもあります。 しかしながら 最終的には、知性が最大の障害物となると言われていて、
そのためここで書いてるようなことは、まったく何の「意味」「価値」もない ガラクタ、冗談 となります。

◎「仏に逢うては仏を殺せ 祖師に逢うては祖師を殺せ」 by 臨済

◎「人は、これが自分自身だと信じるものになる。だから、何にもなるな」 by マハラジ

◎ 夢の中身にほんとうの価値は何もない。すべては空っぽ、風の前の塵に同じ。

◎「堪え忍ぶこと」よりもすぐれた善き利は存在しない。柳に雪折れなし。無様に生きて成仏する。


◆人生の本質は「私」の正体を見極める謎解きゲーム。ある意味では「人生=罠」。 これはただ、

『 源泉に戻れ! そうすれば「 自己? 」はずっと源泉だったことに気づく! なぜなら、

源泉に戻るという動き(真我探求)は、ほんとうは源泉に見られてる夢の中の対象物だから!』

という神秘的な本気のジョーク、または挑戦状。(※源泉は非個人的なもので、論理は通用しない)

★参考:後述の「サーンキヤ哲学」、「釈迦いわく(解脱者のゆくえ)」

※すでに「源泉・真我」であることを自覚するために、様々な方法が提案されてるのがこの分野(笑)。

この悪ふざけのようなジョーク(意識の戯れ)について、アドヴァイタ哲学では、
「自然発生的な?(← 諸説あり)リーラ(神聖遊戯)」 と言われている。
これは解脱した人でも「究極の理由」はわからないようだが、おそらくマハラジ氏(下記)

が言ってるように、実在の領域にこの幻想が起こるネタ(微細な不調和)みたいなものが、
何らかの理由で、あるいは自然発生的に発生して、これが起こってると考えられる。

そして私たちがほんとうに求められてるのは、そういったことを知的に理解することではなく、
実際に自己を調べて、私たちこそがこの幻想の「源泉」であることを、自覚することではある。
なお、この部分は解脱者(悟った人)でも捉え方や表現が人それぞれ変わってくる(下記)。

関連情報はこちら ↓(別ページ、究極の理由は不明)
人類の運命 & このジョークが起こる理由について
グノーシス主義、神はおられる...

by ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者)

▼質問者
なぜ私はこの形をとったのでしょうか?
▼マハラジ
それはあなたが愚かだったからだ。もしあなたがそれについて何か知っていたとしたら、あなたはこの世に生まれ出て来なかったことだろう。《「意識に先立って」P79 より》

私の真実で全体である均質的な状態に、ほんの小さいさざ波が現れ、「私は在る」というニュースがやってきた。そのニュースのせいですべてが変わってしまい、私はこれを知り始めた。
非顕現としての私の存在から、この顕現の状態が出て来た。その均質性は属性の活動やマインドの投影を理解しているが、属性の活動やマインドの投影は均質性を理解することはできない。それがそれを理解しようとするとき、それはそれと一つになる。《「意識に先立って」P26~27 より》

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(16:20~)

厳密な意味での巨大な知性を持った創造者は存在しない。
この意識の戯れすべては自発的、自然に続いていく。その背後には知性は存在しない。

幻想の源を探求することによって、この幻想とは何であるか見つけようとしなさい。

by ラメッシ・バルセカール(解脱者)
※この人が言う「神」は、幻想の側ではなく「至高の実在」のこと。

▼質問者
私たちは、神の意志を理解しようとすることができないのですか?
▼ラメッシ

あなたはそれをやりはじめようとすることさえできません。その理由は次のとおりです。

私たちの知能は非常に限定されていて、知性も非常に限定されています。それに対して、神の知性は
永遠です。ですから、非常に限定的にしか理解できない私たちが、どうやって神の意志を理解できるというのでしょうか?私たちにはできないのです。

▼質問者
誰もできないのですか?
▼ラメッシ
誰もできません。なぜなら、あらゆる人は、単に源泉の反映である現象全体のわずかな部分にしかすぎないからです。あなたにできることはただ、あなたが少し前に言ったように、ものごとをあるがままに受け入れることだけです。まさにそういうことです! 《「誰がかまうもんか」より》


◆人はみな幸せを探してる。でも幻想の中の幸せは、時間に破壊されて苦しみに変わるときがくる。
なぜなら、あらゆる二極性は宇宙の根本原理において表裏一体だから。
なので、もし根本的に解決したいなら、時間と空間を超えた絶対的な真我を探求するより他に道はない。

なお、どんなに 輪廻という冒険 を続けたとしても、いつかはハイリアリティに自我を明け渡して、
それに目覚める(=輪廻卒業)ときがすべての人に必ずくる(元々それなんだから当然だけど)。


◆しかしながら、ここに パラドックス があることに注意しておきたい。すべての人間の「私」は、錯覚が起こってるだけで本当は(ある意味では)真我なんだけど、幻想の側の深層意識に、自我(の種子)
を真我であると誤認して愛着する(≒根本的生存欲)おバカなプログラミングがあり、それが表層意識に
自我の催眠として現れて、輪廻の原因(=無知)にもなってる、と考えられる。
だから仏教は「諸法無我」(現れた世界に「我=原義は霊魂(真我)」は存在しない)と説く。

つまり逆説的だが、真我探求というのは直接的に真我を探すことではなく(それは不可能)、錯覚の中に現れた「 行為者としての自己感覚(自我)」や「 体・心・意識 」を偽り(非自己)、と見なして執着を
解くことによって、自我の催眠(=自我への「私」の同化)を解除していくことに他ならない。

なお、「『私は在る』という純粋な感覚に焦点を合わせる」という方法も提案されてる(マハラジ氏)。
つまり、「私は何かだ(意識内の全て)」を全否定(切り離す)して「私(観照意識)」を自覚する、
ということで(詳細後述)、これは表現が異なるだけで先に挙げた方法と本質的にまったく同じこと。

同化解除といっても、最後は「私」が消滅していく(or落ちる)感覚が起こり、恐怖・苦痛を伴うケースもある(深層の状態が関係?)。 言い方を変えれば次のようにも言えるだろう。

解脱してない人の「私」という存在感覚は、半分は真我(実在)の要素(の反映)で、もう半分は自我
(幻想)の要素であるため(ミックス)、注意が必要になる。 ひたすら心を浄化し、偽りの観念を放棄し、
個人的なアイデンティティに巻き込まれなければ、「私」は観照意識になる。 その背後に真我が在る。
観照意識に安定できるようになれば、あとは解脱(真我実現)まで自動的に進行する、とも言われてる。

ただし、観照意識とか スルー して スパッ と解脱する ケース も稀にあるようなので、プロセス は十人十色だろう。
以上より、仏教の「諸法無我」の教えと「真我探求」は、表現が異なるだけで本質的には同じと言える。


◆「行為者の感覚」に着目して探求(瞑想・生活)するのは、「明け渡しの道」にもなりえる。
何が起ころうとも神(or 真我)の計らいとみて、行為者としての自我を明け渡していく(自己放棄)。
◆すべての認識の対象(体・心・意識)は私ではない、として探求(瞑想・生活)し、催眠(同化)を
解いていくのは「知識の道」で、釈迦仏教や一般的な真我探求はこちら。

◆この2つは内面で起こることはもちろん同じ。「明け渡し」は対象を設定して信頼・献身・帰依を土台として対象への自己放棄を試みる。「知識の道」はひたすら無執着で何も掴まない。

◆私たちの人生の多くは、「私」を存続させ装飾しようとする飽くなき試みである、と言える。 しかし
マハラジが言ってるのは逆に、「私」を他の全ての概念(体・心・etc)から切り離す、あるいは、心は現象をある程度受け取っていいのだけど「私」は受け取らない、そこに距離を空けていくということ。

◆縁起の観点から言えば、次のように言えるだろう。もし、「真我(至高の実在)」に意思のようなものがあると仮定した場合に、真我がやって欲しそうなことをやっていけば真我実現の方向に導かれる、と。
◆マハラジいわく、「彼があなたにしてもらいたい事は単に、自己洞察、自己制御、自己放棄だけだ」
「『私は誰か?』以外のすべての質問を放棄しなさい」「夢の中で、これは夢だと確信することが大切」

◆「苦(主にネガティブ感情)」を心の一部をつかって歓迎する(受容する)訓練をすることにより、
やがて心の中心に不動の静寂ポイント(動中の静)が徐々に感じられるようになる。
それが成熟して他の条件をみたせば、観照意識となる。

◆この他にも古来よりさまざまな方法が提案されてきたが、いずれも「心の静寂」が最重要項目となる。

そのためには行為を正して深層意識のデータを浄化していく必要があり、それにあたっては、
「苦が起こる原因(本質的な意味)」をひたすら繰り返し熟考して深層意識に染み込ませることで、心の反応パターンを改変していくことが肝要となる。

《「I AM THAT 私は在る」P94 より》

▼質問者
神の名を繰り返し唱えることは、インドではたいへん一般的なことです。それには何か効力があるのでしょうか?
▼マハラジ
ものであれ、人であれ、名前を知っているときは見つけやすい。神の名を呼ぶことによって、あなたは彼をあなたのもとへ来させるのだ。
▼質問者
どのような姿で彼は来るのでしょうか?
▼マハラジ
あなたの期待した姿による。 あなたが不幸であったとして、ある聖者が幸運のためにあなたにマントラを与えたとしよう。あなたが信心と帰依心とともにそれを繰り返せば、不運は去るほかない。変わらぬ信心は運命より強い。運命はいくつかの原因の結果で、ほとんど偶然の産物だ。それゆえ、それはゆるく織り込まれている。 自信と正しい期待が、それをたやすく克服するだろう。


《「I AM THAT 私は在る」P189 より》

▼マハラジ
もし言葉が欲しいなら、太古の力をもつ言葉をあなたに授けよう。どれでもいい。絶え間なく繰り返してみるがいい。それらは驚きをもたらすだろう。
==
▼質問者
その手段の有効性のために信仰は必要ないのでしょうか?
▼マハラジ

結果への期待でしかない信仰ならば、まったく必要はない。ここでは行動が大事なのだ。何であれ、あなたが真実のためにすることは、あなたを真実へと連れていくだろう。ただ、正直に、誠実でありなさい。どのような形を取るかは問題ではない。

==
▼質問者
信じられません! 絶望間際の、退屈で単調な復唱が効果的でありうるのでしょうか?
▼マハラジ

繰り返しているという事実そのもの、退屈と絶望、そしてまったくの確信の欠如にも関わらず、忍耐と
粘り強さをもって闘いつづけていることが、実に決定的なことなのだ。やり方自体が重要なのではない。
その背後にある真剣さがもっとも重大なのだ。


※これは仏教の「塵を払わん、垢を除かん」の話にも通じるだろう。
すべては縁起のシステム上で起こってることなので(=幻想の神、プログラム)、ある水準を超える
「アホ みたいに粘り強い努力」「人間臭くない行為」は、確実に結果を出してくるだろう(マントラ限らず)。
★個人的に好きなマントラ:「オーム・ナマ・シヴァーヤ」


◆表層意識における探求に「真剣さ・誠実さ・粘り強さ」があれば縁起によって導かれ、やがて深層意識の構造改革(=解脱)に至る可能性がある。それは完全に神の意思のようなもの(運命)であって、幻想の自分の側のコントロール下にはない。しかしそれが起こらなくても、すべては縁起によって何かに繋がるので賢明な努力を心がけたい。 なお、非常に深く強い菩提心(解脱を求める心)が利他心・慈悲心と共に起こって行動を伴えば、もし今生で無理でも輪廻の中で必ず解脱に向かうと言われている。そして、
蓮の花は泥沼から咲くのであり、「深く強い菩提心」は泥沼のような苦境・逆境からこそ、生じやすい。
★悟りの体験と分析(他サイト)


基本はひたすら心を浄化しながら ①。それと同時か成熟してきたら ②。などが一般的なアプローチ。
ただし、霊的修練は人それぞれの適性がある。「私は行為者ではない」という確信は絶対あったほうがいい。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「意識に先立って」P117~118 より)
退却するということはただ内側へ入ることを意味するが、あなたの通常の傾向は五感を通して外の世界を見る
ことだ。今、それを逆向きにしなさい。私はこの肉体ではない、このマインドではない、この感覚ではない。
そうすれば、あなたは意識に安定する。意識に安定したあとは、それ以後のことはすべて自動的に起こること
だろう。あなたは顕現へと拡大するのだ。「私は在るという性質」がやって来る前の原初の状態で、
私は存在していたし、存在しているし、存在することだろう。
(※ここで言う「意識」≒「観照意識」、「私は在るという性質」=「意識」、と思われ)

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」P238 より)
気づくことは目覚めることだ。気づかないことは眠っていることだ。いずれにせよ、あなたは気づいている。そうあろうと試みる必要はない。あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。気づきの領域を広げ、そして深めなさい。 

あなたはつねにマインドを意識している。だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」P47 より)
もし私を信頼するなら、あなたは意識とその無限の内容物を照らす純粋な気づきだ、と私が言うのを信じなさい。それを自覚し、それにしたがって生きなさい。もし私を信じることができないならば、そのときは内側に入り「私は誰か?」と尋ねるがいい。あるいは純粋で純然な存在である、「私は在る」という感覚にあなたの気づきの焦点を合わせなさい。(※「純粋な『私は在る』という感覚」は「観照意識」に近い意味と思われ)

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」より)
意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。
だが、意識のなかに反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。(P456)
観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある。観照者とは、それを超えて彼方へと
通りぬけていくための扉なのだ。(P72)

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」P545 より)
あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。そして、あなたはあなたが見ているものではないことを
覚えておきなさい。「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。解放へのほかの手段というものはない。すべての手段は延期を意味するのだ。あなたではないものを断固として拒絶しなさい。真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。それは「何ものでもないもの」だ。

https://www.youtube.com/watch?v=A8mMYTZGFuw(※「字幕日本語」クリック、3:23~)
マハラジの所に訪れた探求者達は、どのようにすればこの「気づき」に達することが出来るのか、
非常に知りたがりました。
「あなたは何かを探すときどのようにするのかね? あなたのマインドとハートを探すものに対して向け続けることだ。関心を持たなければならない。そして、絶えず思い起こしなさい。思い起こされる必要があるものは忘れずにいるのが成功の秘訣だ。」

by ニサルガダッタ・マハラジ(「I AM THAT 私は在る」P476 より)
知識へのすべての興味を完全に失うことが全知をもたらすのだ。それは正しい瞬間の誤りのない行為のために、知られる必要があることを知るという贈り物にほかならない。結局、知識は行為のために必要とされる。


    ↓ 詳細解説 & 探求者向けの知識

~ 心と深層意識のカラクリ、ハイリアリティ ~

◆人間の深層意識は大まかに言うと次のようになってる。
「 表層意識 → 潜在意識 → 集合意識(宇宙意識)」 この集合意識(宇宙意識)と、
唯識(下画像参照)でいう「阿頼耶識(アラヤシキ)」は、ほとんど同じものと考えていい。
そこに個人の過去の行為のデータ(カルマ)と、仮想世界のすべての要素を作り出すための、
あらゆるデータ(材料)が保存されてる。  つまりこれは「仮想根源意識」と表現できる。

◆「意識」「心」「認識作用」などもそこのデータを使って作り出され投影されていて、
そのため認識の対象となるものは、当然そこのデータを使って作り出されたもの限定となる。

◆「ハイリアリティ(実在、真我、霊魂)」 は作り出されたものではなく、すべてがそこから
現れる源泉であってすべての概念を超えているため、心のシステムで直接捉えることはできず、

論理が通用せず、言葉で直接表現することもできず。 これはコンピュータがプログラム以外
を解釈できないのと同じようなもの。 どのように表現しても、ある意味では的外れになるはず。
あえて表現すれば、「 属性がない、圧倒的実在感、それに勝るものはない、無敵 」 などという、
心にとっては意味不明で、ふざけてんのかと言いたくなるようなものになるかと思う(笑)。
後述の「釈迦いわく[ 出離 ]」(涅槃ニルヴァーナの解説)を見れば、やはり直接的描写は
ほとんど不可能であることがうかがえる。 しかし、生きてるうちはいわば半分半分なので、
肉体が死なないと解らないこともあるのでは? と私は考える。 たとえば死後に、描写不可能
といわれる「絶対者パラブラフマン」に入り切れば、生存中は認識不可能な「真実の神々の世界」が
始まる可能性すらあるのではいか? と(※妄想注意!)。

これは叙事詩なので表現が比喩的。
《「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)P109~P110 から引用》
★原作者、聖仙ヴィヤーサ(他サイト)
私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死(甘露)に達するところの。それは、無始なる最高のブラフマンである。それは有とも非有とも言われない。それは一切の方角に手足を持ち、一切の方角に目と頭と口を持ち、一切の方角に耳を持ち、世界において一切を覆って存在している。それは一切の感官の属性(グナ)を持つかのようであるが、一切の感官を離れ、執着なく、一切を支え、プラクリティの要素(グナ)を持たず、しかも要素を享受するものである。それは万物の外にあり、かつ内にあり、不動であり、かつ動き、微細であるから理解されない。それは遠くにあり、かつ近くにある。それは分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在する。それは万物を維持し、呑み込み、創造するものであると知らるべきである。それは諸々の光明のうちの光明であり、暗黒の彼方にあると言われる。それは知識(真知)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それはすべてのものの心に存在する。

◆例えるなら、「阿頼耶識」は映画の映写機(フィルム含む)で、これが上映してる映画が
表層意識に現れる世界(または人生)、というように言える。

ただし、阿頼耶識(映写機)もスクリーン上の映像の一部に過ぎない(笑)。。

(※参考:後述の「唯識について」。 つまり、釈迦仏教や不二一元論と同様の見解。)
当サイトの見解では、スクリーン上に最初に現れる映像である阿頼耶識が、縁起プログラムにより
他の映像(意識とその内容物)を描き出してる。 つまり、心の世界はすべて縁起、一切皆空で、
深層意識(根源意識)にも自性はないと。 そしてそのスクリーンが「ハイリアリティ」で、
それが 認識力現実性 において映像中の人間と接続する一点が「霊魂」であると考えられる。

◆そしてこの阿頼耶識から、いわば潜在意識の領域の自我である「末那識(マナシキ)」
が現われる。この識(=心)は人間が寝ても覚めても、深層でつねに「我、われ」と考える
根源的な自我執着心である。 これが阿頼耶識(=いわば宇宙の根源的ないのちの流れ)を見て、
それを自分の正体(=真我?)であると誤認して執着・愛着し続けてる(誤認プログラム)。 
これが、表層意識で起こるあらゆる煩悩と、自我の催眠(=自我意識への「私」の同化)、

そして輪廻転生の根本原因であると考えられる。(※以上、「瑜伽行唯識派」の説)

◆まとめると、私たちが見てる世界は、そのほんとうの構成要素は「ハイリアリティ」であり、
世界を見てる私たち自身も、本当は(認識の真の主体、存在感覚の源泉は)ハイリアリティ。
そこから現れた阿頼耶識(集合意識)が、各個人の表層意識に「世界(心・体ふくむ)」という
共通の舞台設定で完全リンクされたイメージ・現象を投影し、私たちはそれを体験するわけだが、
自我の催眠下においては真の現実(自己)であるハイリアリティに気づかなくなるため、
それぞれの物が分離した確固とした「物質世界」が、私たちの意識に依存せずに実在してるかの
ように感じる錯覚が発生する。 「時間・空間」もほんとうは投影されたメージ・観念だが、
催眠下の錯覚(実在が抜けてる)によって実在するように感じられる。 つまりほんとうは、
物質世界は実在せず「世界、という体験」が存在するのであり、「世界=体験=体験者(心)」
で、解脱者の「主客未分」の認識状態が真実である。

これは、「心の汚れを取り除けば、描写不可能な真我の反映が心に映り込み(=観照意識)、
そのあと真の自己は真我だったことに真我自身が気づく」 という冗談である。

◆このような 神業的な幻術 の下では人間は気をつけないと、自我意識に基づいて道理に反した

動きをしがちになり、そのために因縁生起によって未来にあらゆる種類の苦しみを作り出し、
また、心のエネルギー経路を歪ませてしまい、外的な要因に過剰に頼らなければ幸福感が感じら
れないようになるため、注意が必要となる。 しかし何がどうなっても、それは定められた運命。
◆これをどう受け取ってもよいのだろうけど、ある意味では人生は、

「おふざけ神通力の仮想世界(催眠)を超えていけ!」との神聖なる挑戦状ではないだろうか?


~ 手 が か り ~

◆仮想世界に現れるすべては実は「ハイリアリティ」そのものだが、それが人間存在に
直接的に投影してる要素は、「認識力」「現実性(リアル感、親密さ、存在感)」である。

※人それぞれの適性があることをご理解ください。

◆~ 認識力(気づき)への着目 ~

人間の「認識作用」は 心(=幻想)の機能であり、深層意識が上映してる映像の一部だが、

「認識力」は本当の意味では心にも深層意識にも属さない。 それは霊魂からきてる。
例えば、月が自らの光で世界を見てるとする。しかし、月の光はほんとうは太陽の光である。
ここでは「月=心、太陽=霊魂」。 つまり、霊魂から発現した「認識力」が心に及んで

はじめて私たちは「認識作用」という心の機能を使うことができる(=幻想視点)。

私たちが何かを見るとき、「見る者(心)」「見ること(認識)」「見られるもの(対象)」
という3つの要素があるようにみえるが、じつはそれらすべてを包括するもう1つの要素、
「気づき(認識力)」がある。つまり、霊魂から発現した「気づき」が常に意識に気づいてる。
ここで、「気づき(≒観照)」は実在の本質であり、実在そのものとして扱って問題ない。

つまり、私たちはほんとうは意識を観てる側であり、意識とその内容物は観られてる側であり

(=実在視点)、心の機能である「見ること」は、意識を観てる私たち(気づき)の認識力が
心に及んで成立してる(=幻想視点)。 しかし、催眠下にある私たちは「真我の気づき」を

自覚できず、偽りの自己である自我になりきったような錯覚が起こっている。
心の浄化が進んでくれば、そこ(意識に気づいてる気づき)に注意を向けることを粘り強く
繰り返し試みることで、その自覚が目覚めてくるはず。 また、気づき自体を自覚しなくても、
それが意識内に反映された純粋な部分(観照意識)を一時的にでも自覚できれば、
一時的な観照(=心の動きに影響されずに超然として意識の内容物を観ること)が起こる。

なお、上記3要素は全て「気づき」の中の現れだが、「見ること」は「気づき」の副次的要素
であるため真実度が高い。 つまり、3要素中では「見ること」だけが真実(ミックス)であり、
「見る者(心)」と「見られるもの(対象)」は「気づき → 見ること」があるときにだけ

それに付随して現れる要素で、幻想度100%である(=幻想視点 & 実在視点)。

当サイトでいう「幻想視点」は、主に「幻想の要素を認めながら実在に言及する視点」で、
「実在視点」は完全に実在側の視点。 この分野では論理的パラドックスは必ず発生します(笑)。

なぜなら、私たちが認識するすべては、じつは「自分の心(=深層意識からの投影)」だから。

※つまり、上記の「幻想視点」の解説は、「幻想内への認識力の投影(半分真実)」
ということでご理解ください。 これは、人間の「催眠下の錯覚」とも関係してます。

催眠解除に向かうには、知性を脇に置いて、「パラドックス」を感覚的に体現していくことが必要。
「実在」においては、すべての区別が溶け合い、「パラドックス」は意味を成さない。

そして源泉である真我の位置まで自覚が戻れば、観照時の主体と客体の分離はなくなる、
とされる。 つまり、すべてはハイリアリティ(実在)が化けたものであると。

「ただ、見ることだけが在る。そのなかに見る者も、見られるものも含まれるのだ。
区別のないところに区別をつくり出してはならない。」

《「I AM THAT 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話」P285 より》

マハラジ氏の教え方(表現)には独特の個性があるが、翻訳(重訳)の関係もあってか、少し難解な
感じもするので、ここで解説(自分なりの解釈です)。 彼の晩年より前の教えをまとめた本、
「I AM THAT 私は在る」での教えの主要部分は、『「私は在る(純粋な感覚)」に焦点を合わせる』
というもので、これと上記の『見ることだけが在る』には共通の観点がある。
つまり、「私は在る」と「見ること」はどちらも幻想の中に現れる要素だが、そこには実在の要素が
直接的にミックスされてる(※幻想の中に実在の要素が反映されてる)。 それなので、
『「私は何かだ(意識内の全て)」を全否定した純粋な「私(≒観照意識)」、
「見る者(偽主体)」「見られるもの(偽客体)」を全否定した純粋な「見ること(≒観照)」、
それらに着目しなさい』。『「私は在る」ゆえに全てが現れるということと、純粋な「私」を意識
し続ければ、やがて「観照意識」の自覚が現れてくる』。というようなことを言ってると考えられる。
そして彼の最晩年の教えをまとめた本、「意識に先立って」では、霊的な成熟者を対象とするとし、
『幻想の意識(「私は在る」ふくむ)の背後にある「気づき(真我)」自体に気づきなさい。』
のような教え方がメインになってる。 つまり、観点が「幻想の側」から「実在の側」に移行してる。
この2段階が彼の教えの特徴、と言えると思う。
※「観照意識」= 真我の「 認識力・気づき 」が意識内に反映された純粋な部分。


~ 書籍の紹介 ~

【 アイ・アム・ザット 私は在る ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]スダカール・S・ディクシット、[翻訳]モーリス・フリードマン
[翻訳]福間 巌、[出版]:ナチュラルスピリット

【 意識に先立って ‐ ニサルガダッタ・マハラジとの対話 】

[編集]ジーン・ダン、[翻訳]髙木 悠鼓
[出版]:ナチュラルスピリット

◆~ 現実性(リアル感、親密さ、存在感)への着目 ~

もう1つ、「現実性」と書いたが、仮想世界であっても人間はこの世界や仮の自己を
リアルに感じるものだが、それは厳密には「現在の瞬間」にだけ、感じるのではないだろうか? 
過去のことは脳の記憶としてイメージがあるだけで、本当のリアル感は記憶の中にはないはず。
その「リアル感」はハイリアリティ(真我)から現在の瞬間にだけ、心に投影される。
そして人間は催眠下にあるために、「分離の仮想世界と仮の自己」がリアルだと錯覚するけど、
ほんとうは分離はウソ(錯覚)で、この世界が「ハイリアリティ」そのものでもあり、
そこからリアル感(≒親密さ≒生命感?)が直接的に投影されるからリアルに感じられる。

つまり、人間が「現在の瞬間」にだけ世界や自己に感じる、ある独特な「リアル感(親密さ)」
は「真の自己(真の生命)」に近いもの、と言えるだろう(※真我から生じるという意味で)。

なお、「心に投影される」と書いたが、実在視点で言えば「心=世界」である。

そして、一般的にそのリアル感(親密さ)は、大人よりも純粋な幼い子供のほうが強く感じる
傾向にあるが、しかし幼い子供には「気づきの明晰性」が欠けている(by マハラジ)。

◆ここで、前述の 「覚者たちの言葉」 のとこで「ルパート・スパイラ氏」が言ってる
「叡智と啓示の立場」はここで言う「認識力(気づき)への着目」と同様であり、
「愛、純粋な親密さの立場」はここで言う「リアル感(親密さ)への着目」と同様である、
とみてよいと思う。 たぶん、第6チャクラの活性が強い人は「気づき」のほうがピンときて、
ハートチャクラの活性が強い人は「親密さ」のほうがピンとくるのではないかと推測。


~「サーンキヤ哲学」について ~

◆サーンキヤ哲学は、BC3世紀頃のインドのリシ(仙人)「カピラ」が開祖とされ、ヨーガにおける根本哲学とされてきた。 なお、「バガヴァッド・ギーター」には解脱の方法として、「知識の実修」「行為の実修」「親愛の実修」という三種の道が説かれてるが、「知識の実修」は「サーンキヤの道」とも呼ばれ、形而上学的知識によって解脱する道である。(※実際は知識だけでは難しいだろう)
◆サーンキヤ哲学では、世界の根源として2つ原理を想定する(二元論)。それはすなわち、
精神原理であるプルシャ(純粋精神)と物質原理であるプラクリティ(根本原質)であり、世界は
プルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考える。しかしその両者は不可分の関係で、両者が合わさることにより世界が展開することから、純粋な二元論とは言えない側面もある。
当サイトは基本的には非二元論の立場をとるが、「二元論・非二元論」という分類は、本質的ではなく観点と表現の違いなだけの場合もあり、そこだけに拘って他を排してしまうのは適切ではないだろう。

◆「プルシャ」は一般にアートマン(真我、霊魂)のこと。
「プラクリティ」はそこから世界とそのすべての動きが展開するので、唯識でいう阿頼耶識、当サイトでの仮想根源意識、などに近い概念と考えられる。サーンキヤ哲学では、基本的にはこれを実在であるとする。唯識でも阿頼耶識を実在とする派と非実在とする派があるが、当サイトではアドヴァイタ哲学(不二一元論)、釈迦仏教などと同様に、プラクリティ的なものはすべて実在(プルシャ側)から現れる幻想(仮相)であり、実在が化けたものであると考える。(※心の世界はすべて縁起、一切皆空)
なお、「バガヴァッド・ギーター」では、クリシュナ(至高神・実在)に属する高次のプラクリティ(実質的にプルシャ側)と、低次のプラクリティ(非実在)があるとされる。
◆サーンキヤ哲学では人間の絶対的な価値・幸福は、プルシャが世界に完全に無関心となり、自らの内に沈潜・立脚すること(=独存、解脱)とされる。(※これは仏教などと同じ)

◆「サーンキヤ・カーリカー(=最古文献 4世紀、詩節で構成)」(解脱のところ、概要まとめ)

無意識の牛乳が子の成長のために活動するように、プラクリティはプルシャの解脱のために活動する。
プラクリティはプルシャによって見られると、世界を展開して、7つの様体にて自らを束縛する。
(※ある意味では、睡眠から目覚める瞬間に起こることがコレ)
すると、プルシャはわれを忘れてプラクリティにのめり込む(※本当は観照してるだけだが無自覚)。
すると、プラクリティはさまざまな手立てをもって、「私とあなたは別のものよ」ということを
プルシャに伝えようとする(=創造活動)。 グナ(要素)を有するプラクリティはグナを有さない
プルシャのために非利己的に、さまざまな新たな方法を使って、無用と思えるようなことを実行する。

(※創造活動は ドラマチック だが賢くない) しかる後に、プラクリティは1つの様体を使って自らの
束縛を解く。 すると、プルシャは ハッ とわれに返る。 プラクリティはプルシャに自らを明かしたあと、まるでステージ演目を終えたダンサーが踊りを終了するかのように、創造活動(ダンス)を終了する。ダンスを終えたプラクリティを、プルシャは観客のようにくつろぎながら眺める(=解脱)。

なお、プラクリティが自らの束縛を解くために使う「1つの様体」とは、
「わたしは~ではない」「~はわたしのものではない」「~の存在はわたしではない」 などの

原理的知識の反復考察によって生じる、「純粋で清浄な確信的真知」である。(※深層意識への浸透)

また、この「確信的真知」はプルシャにもとどく。(※と、いうような意味の記述がある)
それゆえに、ほんとうはプルシャではなくプラクリティこそが、束縛・輪廻・解脱、というダンスを
踊っているのである(原典談)。

(※でも プルシャ も私にのめり込んでるのは事実でしょ(当方=プラクリティ 談))

~ 関連書籍からの引用 ~

◆プラクリティは結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは苦楽を享受することにおける因であると言われる。というのは、プラクリティに宿るプルシャはプラクリティから生ずる要素(グナ)を享受するから。彼が要素と結合することが、彼が善悪の胎から生まれる原因である。
《「バガヴァッド・ギーター」([訳]上村 勝彦、[出]岩波書店)P110~111 より》

◆観照意識が純粋精神(プルシャ)と根本原質(プラクリティ)の偽りの結び付きを見破ったとき、
プラクリティは現象世界の展開をやめる。

こうして輪廻転生は断ち切られ、最終的に観照者であるプルシャだけが残る。

《「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P249 より》

◆一方のもの(観客である精神原理)は、「わたしはすでに見た」といって無関心になり、
他方(舞妓である原質)は、「私はすでに見てもらった」といって止める。 すでに精神原理の目的は
達せられているので、両者が結合しても、これからさらに世界創造の動機は存在しない。

精神原理が身体から分離されるにいたり、目的が果たされたのであるから根本原質は活動を停止する。そのときに精神原理は決定的でかつ究極的な独存(解脱)に達する。

《「古典サーンキヤ体系概説」([訳]服部 正明)より》

◆プルシャとプラクリティは単に「至高なるもの」が分岐したものでしかありません。
それらが推測によって導き出されたのは、弟子が二元的感覚の中に深く根づいていたからです。

「バガヴァッド・ギーター」も、プルショッタマ(至高の人、クリシュナ)はプルシャとプラクリティ
の彼方に存在すると述べています。
《「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P157 より》

※厳密にはこの説(↑)が正しいのではないかと思う。 つまり、「プルシャ」とは アートマン(霊魂)、または
観照意識のことで、その深部に至高の実在(パラブラフマン)がある。 しかし、一般的にそれらは分離して
ないとされるので(※論理が通用しない)、当サイト では厳密に分けないで、まとめて「ハイリアリティ(実在)」
などと大まかに表現してる。 つまり、実在するのは「ハイリアリティ」だけであると。

◆プルシャにはいかなる努力もできません。努力をするのはジーヴァ(個我)です。

自我性が存在するかぎり、努力は欠かせません。自我が消え去れば、行為は自動的なものになります。

自我は真我の存在の中で行為します。真我なしに自我が存在することはできないのです。
《「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P214 より》

◆サットプルシャ(※=真実の自己)はどこにいるのでしょうか?
彼は内側にいるのです。 そう言うと、彼はもう一つのタミル語の詩を引用した。

「ああ、師よ! あなたは私の過去すべての輪廻転生において、私の内におられました。
そして私に理解できる言葉で話しかけ、私を導くために、人間の姿で現れてくださったのです」

《「ラマナ・マハルシとの対話 第2巻」P206 より》

~ 書籍の紹介 ~

【 ラマナ・マハルシとの対話 第2巻 】

[著]ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア、[翻訳]福間 巌
[出版]ナチュラルスピリット


~「 唯 識 」について ~

< 唯 識 >

「唯識」は瑜伽行唯識派とも呼ばれ、
4世紀のインドで瑜伽行(ヨーガ)のグループが、
深い瞑想と神通力により深層意識の構造を
明かして大成させた由緒ある大乗仏教の思想で、
あるていど信憑性が感じられるので、
当サイトでもその概念を一部取り入れている。
第九識(阿摩羅識)は日本で後付された概念
なので(略)。 あえて言えば、一般的にいう
「実在・真我」のことになるかもしれない。

唯識思想には、有相唯識派と無相唯識派があり、
これは阿頼耶識の実在性を認めるか否かの違い。
つまり有相唯識派では、龍樹の「一切皆空」
という主張に対して、「認識力の源である(?)
阿頼耶識だけは実在のはずだ」と考える。

当サイトでは「無相唯識派」と同様に、つまり
「 仮想世界(心の世界)は 一切皆空 であり、
実在・真我こそが、一切を観照する認識の
主体(または認識力の源)である」と考える。

ちなみに釈迦仏教や、解脱を説く近代の覚者ら
の多くもこちら。 つまり「心の領域(幻想)」

と「真我(実在)」を分けて考えるのだが、
幻想は実在の現れ(仮相)でもあるから、
ほんとうは、その両者は別々ではない。ただ、
「実在」が主体(源泉)であるということ。
別の切り方で言うならば、、
私たちの「自己認識」こそが、幻想なのだ。



◆ここまでのことを一言でまとめると、 我 わ れ は ラ リ っ て る だ け  


仏教とハイリアリティ(実在、真我、霊魂)

◆一般的に仏教では「霊魂」の存在を否定しがちだが、その根本教理は「輪廻からの解脱」である。
この一見すると不可解な点について、少し掘り下げて考えてみたい。
釈迦がアートマン(霊魂)の存在にあまり言及しなかったのはその存在を否定してるのではなく、彼が
深層意識の構造をよく見抜いていて、「個別の私」に執着する自我の心が解脱のじゃまをするのを嫌ったから、と個人的には考える。 まず指摘したいのは、釈迦が霊魂について述べたのは主に、

『 諸法無我《 法界(現れた心の世界)の中にアートマン(霊魂)は存在しない 》』
『 五蘊無我《 体・心・意識などの人間要素の中にアートマン(霊魂)は存在しない 》』

の2つであるということ。 そして他に考慮しなければならない点は、

当時インドで興隆してたバラモン教の思想は、「人間は肉体と霊魂からなり永遠に輪廻する」というもので、そこでいうアートマン(霊魂)は「自我」に近い意味だったうえ、「解脱」の概念がなく、過酷な
カースト制の原因にもなってた。 これに異を唱えたのが釈迦だった。
つまり、元もと仏教というのはアンチ・バラモン教としての性質も持ってるわけで、ヴェーダ哲学の
「アートマン(霊魂)」の概念が誤解されて「自我」と混同されて浸透してた時代背景の中で、釈迦は「諸法無我」と言った。 つまり、誤解されてるその概念について言う必要があり、
「あなたたちがアートマンだと思ってるそれはアートマンではないですよ」
というアンチテーゼも感じられるわけ。

つまり釈迦の考えは、「アートマン・霊魂のような 観念 にはあまり拘るべきでない」 だったと。


◆そもそもアートマン・霊魂は概念化できるようなものではなく、「輪廻の主体」とも言い切れない。
(輪廻は幻想の中でアートマンは実在だから) ある意味では、「輪廻するのは幻想の側の想念体」とも

「輪廻に主体はない」とも言えるけど(観点と表現の仕方しだい)、だからといって
「輪廻と霊魂に関連性がない」わけでも「霊魂が存在しない」わけでもない、と当サイトでは考える。


◆また釈迦は、アートマン(霊魂)だけでなく「実在の側」についてはあまり言及しなかった。
その理由は主に次の2つであると推測する。

①「ハイリアリティ(実在)」は人間が考える「存在する・存在しない、善・悪」などの一切の概念を超えているため(概念的でない)、言葉で直接的に説明できるものではない。 仮想プログラムの心のシステムは、概念を超えたものを捉えることはできない(※詳細:上記「心と深層意識のカラクリ・・」)。

②「(偽りの)私の存在性」への執着が輪廻の原因の一つであるため、解脱してない人が「私の存在性」と「実在の概念・イメージ」を心の中で結びつけて強く執着してしまえば、深層意識の誤認プログラムの解除(=解脱)が起こる妨げになる可能性があるから。 そもそも上記のとおりで、
「実在」は概念的ではないので、そこに「私」「存在性」などの「概念・観念」を 安易に 結び付けて
考えること自体が、ほんとうはナンセンスなんだろうけど。。


    ↓ 釈迦の個性は「詩的、哲学的、理知的」で、表現に特徴があって面白いです。

~『 無記 』(釈迦いわく)~

ここにわたしが(いずれとも)断定して説かなかったことは、
断定して説かなかったこととして了解せよ。
またわたしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。
「世界は常住である」などということは、わたくしが断定して説かなかったことである。
何となれば、このことは目的にかなわず、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、
安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならないからである。

しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるか?
「これは苦しみである。」
「これは苦しみの起こる原因である。」
「これは苦しみの消滅である。」
「これは苦しみの消滅に導く道である。」
ということを、わたくしは断定して説いたのである。
これは目的にかない、心の平安、すぐれた英知、
正しい覚り、安らぎのためになるものである。


~『 有・無と中道 』(釈迦いわく)~

カッチャーヤナよ、
この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち有と無とである。
もしも人が正しい智慧を以て、世間(世の人々)の現れ出ることを
如実に観ずるならば、世間において無はあり得ない。
また人が正しい智慧を以て、世間の消滅を如実に観ずるならば、
世間において有はあり得ない。

カッチャーヤナよ、
「あらゆるものが有る」というならば、
これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、
これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、
中(道)によって法をとくのである。


~『 出離 』(「ブッダの真理のことば、感興のことば」-[訳]中村 元、[出]岩波書店)~

★(1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、

一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

★何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。行くこともなく、没することもない。それが苦しみの終滅であると説かれる。
★不生なるものが有るからこそ、生じたものからの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。
★生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、それは喜ぶに足りない。

★それからの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

★そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
★来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。──それが苦しみの終滅であると説かれる。
★水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、闇黒も存在しない。
★そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。 聖者はその境地について自らあるがままに知り、自己の沈黙をまもって、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

★さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

★これは究極たる最上の境地であり、無上の静けさの境地である。そこは、一切の相が滅びて無くなり、没することのない解脱の境地である。


~『 解脱者のゆくえ(ヴァッチャの問い)』(中部経典72)~

☆=ヴァッチャ ★=釈迦

☆『 友ゴータマよ、このようにこころが解脱した比丘はどこに再生しますか 』と問われて、あなたは『 再生するというのは適切ではない 』といいます。『 友ゴータマよ、では再生しないのですか 』と問われて、あなたは『 再生しないというのも適切ではない 』といいます。『 友ゴータマよ、では再生しつつ、しかも再生しないのですか 』と問われて、あなたは『 再生しつつ、しかも再生しないというのも適切ではない 』といいます。『 友ゴータマよ、では再生するのでもなく、再生しないのでもないのですか 』と問われて、あなたは『 再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない 』といいます。友ゴータマよ、ここに至って私は分からなくなりました。迷ってしまいます。友ゴータマの先の対話で得た信頼は、いまや消えてしまいました。

★ヴァッチャよ、あなたは分からなくなるに違いない。迷うに違いない。ヴァッチャよ、この教えは意味が深く、洞察しがたく、さとりがたく、寂静で優れており、思慮を超え、微妙であり、賢明な人によって知られるものである。

★ヴァッチャよ、ここであなたに私は訪ねよう。あなたは思う通りに答えなさい。
ヴァッチャよ、あなたはこれをどのように考えるか。もしあなたの前で火が燃えておれば、
あなたは『 私の前で火が燃えている 』と知るであろう?

☆友ゴータマよ、もし私の前で火が燃えておれば『 私の前で火が燃えている 』と知るでしょう。

★ではヴァッチャよ、もしあなたに『 あなたの前で燃えているその火は何に縁って燃えているか 』
と尋ねたら、このように尋ねられたあなたはどのように答えるのか?

☆友ゴータマよ、もし私が『 あなたの前で燃えているその火は何に縁って燃えているか 』
と尋ねられたら、友ゴータマよ、このように尋ねられた私は答えるでしょう、
『 私の前で燃えているこの火は、草や薪を取り込むことに縁って燃えている 』と。

★ヴァッチャよ、もし、あなたの前のその火が消えたら、あなたは
『 私の前のこの火は消えた 』と知るであろう?

☆「友ゴータマよ、もし私の前のその火が消えたら、私は
『 私の前のこの火は消えた 』と知るでしょう。

★ではヴァッチャよ、もしあなたに『 あなたの前のその火は消えた。
その火はここからどこの方向へ行ったのか。東か西か北か南か 』と尋ねたら、
このように尋ねられたあなたはどのように答えるのか?

☆友ゴータマよ、それは適切ではありません。友ゴータマよ、その火は草や薪を取り込むこと
に縁って燃えていました。それが尽き、他に供給されず、燃えるものがなくなって、
それは消えたのです。


◆『 仏教といえば「無我」「無」「空」。死んだら「無」。霊魂はない。輪廻はない。わからない。
あるかもしれない。あると思う。興味ない。』

ここ日本では宗教的なことは自由なので、人それぞれいろいろな考えがあると思う。 
ちなみに、仏教のイメージになってる「無」「空」という概念は主に後世の大乗仏教で加えられたもので、釈迦が言ったものではないが、一般的に宗教・スピ関係で使われる「無」「空」は、当サイトでいう「ハイリアリティ」「実在」「真我」などの言葉と同義とみてよいと思う。つまり、概念が通用せず描写不可能な、真の自己(人間の本質)のこと。(※本来の大乗仏教の「空」は、縁起の空性(実体がない)のことだが、一般的に上記のような解釈が浸透しつつある気がするので、ご理解いただきたい)

◆まあ重要なのは言葉や理屈そのものではなく、この分野の全体像を見てその本質・要点を理解してから実践していくことではある。 しかしこういう分野では表現の好みが分かれ、言葉の定義の問題もあり、またこの分野自体が「概念・観念」を超えたものを扱うために、パラドックスを含んでおり、その本質・要点を理解する過程において非常に誤解が起こりやすい、という点に注意したい。
当サイトを作成したのは、この分野のアウトラインを解説することで、読んだ人が初歩的な誤解・混乱を避けることを助けれたらよい、との思いがあったことがその理由の一つだが、客観的な立証ができない
個人的な「見解」も多く含み、また人それぞれの適性があることはご理解いただきたい。


いろは歌の解釈について・・終末メシア論(※オカルト)

オカルトネタです(笑)

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

香りよく色とりどりに咲く花も、やがて散ってしまう。
この世は誰にとっても無常である。
この有為転変の、現世という深い山を今日越えれば、
もう儚い夢を見て仮相の世界に酔いしれることはない。

いろは歌、ふつうに読むと上のような仏教的な解釈ができるけど、、
(※「有為 ‐ うい」は完全に仏教用語)

現代では最初に挙げたような「七五調の区切り」が一般的だけど、
古文献においては、上画像のような「七行区切り」がよく見られる。そして、、
「イエス」、「とかなくてしす」=「咎なくて死す(無実の罪で死ぬ)」
というように、キリスト教的な暗号が含まれてる、という説が近年では有力なのです。
で、これ公式には作者不明だけど(色々な説あり)、たぶん空海じゃないかなぁと・・
まず、この暗号歌自体が人間技とは思えず天才的だし、空海は唐で景教(キリスト教ネストリウス派)
の洗礼を受けて新約聖書を持ち帰ってて、真言密教もよくみるとけっこう景教の要素が入ってる。
その時代に空海のほかに、こんな暗号歌を作る人物が、作れる人物がいただろうか?
また仮に、作者は空海ではなく、暗号解釈もまちがいでただの偶然だったとしても、本当はこの世の全ては「意識の戯れ(仮想縁起プログラムによる運命)」であり、本当の意味での「偶然」は存在しないのだ。


なお、真言密教の「弥勒菩薩」はインド人が純粋仏教に付け加えた概念(マイトレーヤ)で、ミトラ教
の救世主信仰がバラモン教に導入されて、そこから大乗仏教に導入された。
まぁこれはわりと有名な話だけど、世界中のかなりの宗教、
(キリスト、ユダヤ、イスラム、ヒンドゥー、ゾロアスター、大乗仏教、密教、etc)
これらはみなミトラ教の終末論・救世主メシア論、ほか一部の教義や儀礼を、名や形を変えて取り込んでる(特にキリストが酷似)。つまり歴史の裏をみれば、「弥勒菩薩≒イエス・キリスト」となる。(笑)
「ミトラ教」の大元の関連性は「シュメール文明(BC3500年頃~)」及びその周辺にあるが、その後の古代オリエントにて形式化されていき、BC1800年頃以降は原始ミトラ教?の形になり国教にもなった。
そしてその後の古代アーリア人(イラン・インド)に、ミスラ神=ミトラ神(契約神・後に太陽神にも)の信仰が受け継がれ、1~4世紀にはローマ帝国および西アジア全般で救済宗教として興隆し、そしてキリスト教に敗れる形で衰退した。 「ミトラ神」はサンスクリット語では「マイトレーヤ」。
「ミトラ神」はヴェーダ聖典(BC1200年~BC1000年頃)にも「契約神ミトラ」として登場。
ちなみにミトラ教ルートではないけど、「大本」や「日月神示」、近年では「ニューエイジ思想」や
「アセンション思想」なんかも形は違えど終末論・メシア論をふくみ、共通の原理が感じられる現象。
★ミトラ教概説 ~ 竹下雅敏 講演映像

「もしキリスト教が何らかの致命的疾患によってその成長過程で、その拡大を止められていたならば、
世界はミトラ教化していたであろう」 by エルネスト・ルナン(宗教学者)


これを本質的に見るならば、ミトラ教うんぬんというよりも、少なくとも3000年以上前から同じような終末論・メシア論を繰り返し人間社会に刷り込んでくるこの現象を作り出すための、特定のプログラムが集合意識(仮想根源意識)に存在してるということ。 そして明らかに「霊界」も密接に関わってる。

より正確に言うと、、
究極の視点で見ないなら、人類の運命に関連する壮大な脚本プログラムが仮想根源意識にあって、霊界や人間界の存在たちは、根源意識の「遊び心・混乱」などの要素と共に動かされてるのだろうということ。
だから世に出てる終末予言なんかも、部分的に当たったり外れたりだろうね(大元が アレ なので・・)。
究極の視点で見てしまうと、仮想根源意識もふくめたすべては「至高の実在」の仮の現われであり、物事は「時間」という幻想の中で一時的にそのように現れるだけなので(すべて運命)、そこに個別の原因や意味はない。(※縁起プログラムは見かけ上の原因) もちろん、これ書いてるのも私の意志ではない。

そしてある時期に現れた問題は、時間の中で必ず解決され、しばらくしたら別の種類の新たな問題が作り出されるようになってる。 おそらく現人類の記録上の歴史が始まったシュメール時代あたりから人類がずっと抱えてきたこの問題の、自我と自我のぶつかり合いや戦争の原因にもなってきた終末論・メシア論の、裏に隠されたほんとうのテーマは、「人間存在の真実について」、そして「自我からの救済」または

「現行DNAシステムからの救済」なのではないだろうか?(※妄想)


キリスト教は詳しくないけど、イエスの磔と復活の話って「自我の死」と「真我への目覚め」の比喩じゃないのかなぁ、と個人的には昔から思ってる。何というか、聖書読むと一人の解脱者が書いたとはとても思えず、改ざんや捏造、あるいは意味深なメタファー(隠喩)が多い気がする。

つまりその話は、『 十字架の磔のように「自我」が追い込まれる時が、いつか人類にやってきますよ。でも最後には「真我」に目覚めますよ 』 みたいなメタファーを含んでるのではないかと。

「追い込まれる」と書いたけど、「真我に目覚める」というのは自我にとってはまさにそういう感じで、
完全受容、完全降伏、みたいな事だから必ずしも悪い意味ではない。 そして社会的には通用しないが、このサイトで繰り返し書いてるように、本当はこの世に行為者はいないので、「自我」ってのは本当は何の罪もないわけ。だから、イエスが無実の罪で十字架に掛けられたって話と ピッタリ 合うんだよねぇ・・
私が人生経験から理解したのは、縁起のシステムはどうも メタファー と ジョーク が大好きらしい ということ。
★サレンダー(布袋寅泰)


「キリストの再臨」とか、それ以外でもミトラ教類似のあらゆる終末・メシア論ってのは、もしかしたら、表面的な意味と内面的な意味(=隠喩)の2つを掛けてるんじゃないかと思ったり。
表面的というのは、実際にメシア的な存在があらわれて窮地に追い込まれた人類を奇跡的に助けること。しかしその場合でも、世に出てるどの終末論もかんぜんには当たらない気がする。 内面的というのは、人々の内側からくる救済のことで、最終的には真我実現か、またはDNAレベルでの霊的進化のこと。
あるいは内面的な意味だけ、つまりかんぜんにメタファーである可能性も考えられる。


この手の終末論・メシア論はもちろん陰謀論の視点でも見れるけど、私はつぎのように考える。
陰謀的なものは霊界も含めておそらく存在する。しかし本当はこの世にもあの世にも行為者はいないのだから、それも仮想縁起プログラムに定められた、ドラマチック に演出するための駒に過ぎず、全てはしかるべきところに収束する。この仮想システムは人間にとっては根本的に不条理さがあるけど、その根源プログラムに「秩序」「遊び心」「混乱」のような要素があり、そしてある意味では「至高の実在(=真我)」の
直接的要素が、全顕現の裏側から「顕現全体」に、常に一定量、作用してる。 ただ人間(個人)の目で局所的に一時的に見れば、それが強く現れるときや、弱く現れるときや、まったく現れないときが、あるように感じられるのではないだろうか? この仮想システムが暗に仄めかしてることは、どうみても
「分離は幻想、すべては幻想、自我の存在は認めたくない(キャハ)」ということだろう。 そして、、

このサイト含めすべての現れは、ほんとうには存在しない宇宙意識界による、壮大なるボケにすぎない。
そのため私たちが受ける人生の最終の目的は、真実の自己知識(解脱)をもって、その壮大すぎるボケ
(人生自体も含む)にツッコミを入れることにある、と言えるだろう。(※観照者視点)
そしてその背後で私たち(真我)が、ボケとツッコミは双方とも自分自身であることをハイリアリティの真の現実の中で見届けることで、あるいは私たち(真我)が自分自身にツッコミを入れることで、
この リーラ(神聖遊戯)は完結となるはず。(※実在視点)
実在視点では「ボケ、ツッコミ」「実在、幻想」という二元性は成立せず、「論理」も通用しないのだ。

ちなみに、上にあげた根源プログラム の3要素「秩序」「遊び心」「混乱」は、ヴェーダ哲学における
3つのグナ「サットヴァ(純質)」「ラジャス(激質)」「タマス(暗質)」と雰囲気的に同じような
感じ、と考えればわかりやすいと思う。。


そんで、空海は唐で景教徒とかなり親交があったらしいので、キリスト教の秘密(裏話、噂話)のようなものを知ってた可能性もある。あるいは神通力で人類の運命を見抜いてた可能性もある。それで、仏教的な内容にキリスト教的な暗号入れてイロハ歌を作ったんじゃないかと(※憶測)。
空海といえば超人的な能力と法力(神通力)で、最期の遺言も「弥勒菩薩と共に再来する」とかでしょ。
なんかこのイロハ歌が引っかかったもので。 推測と憶測だらけのオカルトネタですけど。(笑)

<他サイト>
★弘法大師が「いろは歌」の作者か ★暗号文としての「いろは歌」 ★シュメールと日本の関連性
★(動画)地球最古の文明は人類が作ったものではない?アフリカで発見された20万年前の超古代文明!


◎ 仮想意識の中に現れる世界は、幻想かつハイリアリティ。 「 神聖遊戯リーラ これにて閉幕 ♪ 」

◎「 世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり 」 by 聖徳太子

◎ ホトケでないものなど存在しない。成仏とは、ただ錯覚が取り除かれること。

人間は心の深層に汚れと執着があるために、一時的に自己を正しく認識できてないだけ。


★Silence[Original Song from Karma]: Delerium
★Broken Pieces: Two Ways