輪廻卒業キャンペーン・魂の回覧板

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近年は地球文明の絶頂期を迎え、ここ日本もストレスの多い社会となって参りました。
そこで宇宙の法を理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 蓮の花は泥沼から咲く♪

当サイトでは宗教的なこと、主に 人間存在の真実 について書いてます。この分野では、ある理由から
それをオブラートに包んで表現する傾向にあり、それは仏教にも言えます。 しかし仏教が興った
約2500年前とは時代・世相が異なることと、近年ではオブラートなしで表現する覚者・解脱者たちも
見受けられることも参考にし、当サイトでは極力、真実をストレートに表現することを心掛けてます。

あなたは運命に定められた通りに、0.1秒のズレもなく「この文字」を読んでます。

◎ 世界と人間のシステム & 輪廻のゴール(まとめ)
◎ 仏教と「 至高のリアリティ(実在、真我、霊魂)」

世界と人間のシステム & 輪廻のゴール(まとめ)

◆この世界は仮想現実(VR)のようなものである(「心」のトリックの世界、詳細後述)。
◆現れた世界のすべては全自動の因縁生起プログラムによって動いており、ほんとうは個人的行為者
は存在しない。ほんとうは誰一人この世界の動きに介入できない。 (自分の経験から100%確信)
どんな高次の存在がいたとしても、それも人間同様にプログラムで動いていると思われる。
◆人間は自我の催眠作用によって、本当はプログラムどおりに動いてるのを自分の意思で心身を動かしてる、と感じる催眠状態にある。言い換えれば、行為者としての自己感覚を「自我」と表現できる。
◆しかし仮想世界の中では行為の責任が個人に負わせられるのは、倫理上しかたのないこと。


◆人生は神聖なるジョークであり、挑戦状でもある。 すべての現れは仮想宇宙意識の戯れであり、
人間の意識もその深層の宇宙意識の一部(その幻想を超えていけということ)。

◆ある意味では仮想意識の中に世界と人間(=仮の自己)が現れ、霊魂(真我)の「私?」という
存在感覚が肉体と自我に同化する。このうち、自我への同化のことを「自我の催眠」と表現できる。
◆縁起の法則は、あらゆる二極性の振動、愛と苦痛の人間ドラマを仮想世界に作り出す。


◆生きてる間に自我のシステムに何らかの強い力がかかって自我の催眠が解けるケースがあり、
それがいわゆる悟りを開いた人たちで、彼らは今生で輪廻を卒業する。

◆人間が体験するできごとは、基本的には自分の深層意識にストックしてある過去の行為のデータを
使って現象化してる(人間関係なら自分と相手、集団なら構成員たちのデータ)。

◆このデータは主に前世から現在までのもので、現象化されれば消えるが、ネガティブ現象において
はそれと戦ってしまう自我の防衛システムによって、新たなネガティブデータが保存されやすい。
◆保存されたデータが現象化するまでの時間はさまざまであり、深層意識の状態と運命にもよるが、
おそらく平均的には人生の全行為の1/2以上は来世に持ち越される。


◆この仮想プログラムは自然発生的に起こっていて、厳密な意味での巨大な知性を持ったプログラマー
(創造神)は存在しないが、神的なインテリジェンスを含んだ原理が一切万物に浸透している。
◆高次の視点で見れば、あらゆる物事の運命は先々まで定まってる可能性がある。
◆全ての二極性は表裏一体であり、輪廻の中に現れるあらゆる状況は時間の中でバランスをとる。
◆人間の知性はこの創造プロセスの結果として生じる産物であり、そのため我々は創造プロセスを
評価する立場にはなく、真にに求められてるのは自己を調べて幻想を超えていくことだけ。
◆現時点の人類のDNAシステムと自然界のエネルギーバランスでは、生きながらに自我の催眠が解けて解脱(真我実現)するのは稀なケースで、今その転換期に差し掛かりつつある、という説もある。


◆しかし、これは仮想世界でほんとうは個人は行為者ではないことを確信し、そのことを実生活に即してよく考え抜き、自我に根ざした行為を控えハートに根ざした道理に適った行為を心がけて深層意識のデータを浄化し『 すべての認識の対象(世界、体、心、意識)は幻想(夢に見られてる側)』

であることを確信して、なるべく欲望・執着を捨てて死ねば、死んだときに輪廻(幻想)を卒業して
ニルヴァーナの至高のリアリティ(実在)に目覚める可能性が高い(自殺を勧めてるのではない)。
「仮に」輪廻したとしても、深い洞察と良縁に恵まれた好ましい流れの運命を享受できるはず。
なお、人生の中で「来世」という可能性を少し考えて行為するのは理にかなってるかもしれないが、
死ぬ間際にその概念(イメージ)を持ってしまうと、それが輪廻の卒業を妨害する可能性がある。


◆しかしながら、本当は至高のリアリティは誰にとっても今の瞬間に存在する(催眠により気づかないだけ)。眉間の後ろのほう(脳の中心部)とハートの中心に全てである真我(≒無)への入り口があるが、その入り口の感触はたいてい味気なく感じられ、よく無視される。幼い純粋な子供はその感触を
おぼろげながら感じてるため、自己と世界の関係性が親密である。 その入り口から深く入っていく
ためには、心(表層・深層)を整えて執着(とくに自我への)を放棄することが要求される。
その入り口の最深部(実在)から、仮想意識とその中に時間と空間の仮想世界が、いま、現れる。


◆生きながらに自我の催眠が解けて解脱した場合、メインの自己感覚は真我の側になり、仮想世界に
現れた人間としての自己感覚は非常に小さくなり(無限の真我の一側面なので、ほとんど私は人間だ
とは感じられない)、自分が行為者(行為の司令塔)であるという感覚もほぼ消失する。この状態は
非常に現実的なパワーがある。あえて肉体のレベルに焦点を合わせれば行為者の感覚が起こるが、
それは偽りだ、という感覚が同時にある。メンタルシステムの最大の障害物である自我が落ちるので、
心はエナジーと喜びに満ち、常に現在の瞬間を直感的に的確に捉え、慈悲深く注意深く道理に適った
振る舞いを自動的にするようになる。ネガティブ感情も起こるが幼子のように速やかに消えていく。
自分のことでは精神的には悩まないが、人々が苦しむのを見て胸を痛める。肉体的な痛みは、
肉体のレベルにおいては普通の人と同じように感じられるが、同時に真我の位置からの観照が起こる。


◆人生を例えるなら、それは既に作られたシリーズものの映画を見てるようなもん。我々はほんとうは真っ白なスクリーン(=至高のリアリティ)でありその中の小さな点(=霊魂)でもある。その小さな点が、登場人物の視点から映画の中の世界を見てる(衆生本来仏)。
つまり人間はいわば夢に見られてる側であり、「私?」は夢を見てる側であり、本当は誰も生まれず、
誰も死なない。誰も何もやってない。 自分が世界の中を動き回ってる、という感覚は自我の催眠に
よるもので、実際には至高のリアリティの中で霊魂の前に仮想意識とその中に仮想世界(時間と空間)
が現れて、その中で霊魂(真我)が同化してる登場人物が動き回ってるようなシーンが現れる。


◆人生の本質は「私」を見極める謎解きゲーム。 これはただ、

『 源泉に戻れ! そうすれば[ 自己? ]はずっと源泉だったことに気づく。 なぜなら、
源泉に戻るという動き(真我探求)は、ほんとうは源泉に見られてる夢の中の対象物だから 』

という神聖なるジョーク。 人はみな幸せを探してる。でも幻想の中の幸せは時間に破壊されて苦しみに変わるときが必ずくる。なぜなら、あらゆる二極性は宇宙の根本原理において表裏一体だから。
なのでもし根本的に解決したいなら、時間と空間を超えた絶対的な真我を探求するより他に道はない。

なお、どんなに輪廻を続けたくても、いつかは至高のリアリティに自我を明け渡して、
それに目覚める(=輪廻卒業)ときがすべての人に必ずくる(元々それなんだから当然だけど)。


◆しかしながら、ここに パラドックス があることに注意しておきたい。すべての人間の「私」は、
錯覚が起こってるだけで本当は(ある意味では)真我なんだけど、幻想の側の深層意識の領域に、
自我(の種子)を真我であると誤認して愛着する(≒根本的生存欲)おバカなプログラミングがあり、
それが表層意識に自我の催眠作用として現れて、輪廻の原因(=無知)にもなってる、と考えられる。
だから仏教は「諸法無我」(現れた世界に「我=原義は霊魂(真我)のこと」は存在しない)と説く。

つまり逆説的だが、真我探求というのは直接的に真我を探すことではなく(それは不可能)、錯覚の
中に現れた「 個別の行為者としての自己感覚(自我)」を偽りと見なして執着を手放すことによって、

自我の催眠作用(=自我への「私」の同化)を解除していくことに他ならない。 表層意識における
真我探求に「真剣さ・誠実さ・粘り強さ」があれば、やがて深層意識にその影響が及ぶと思われる。
つまり、仏教の「諸法無我」の教えと「真我探求」は表現が違うだけで本質的には同じ、と言える。 

◆人間の深層意識は大まかに言うと次のようになってる。
「 表層意識→潜在意識→集合意識(宇宙意識)」 この集合意識(宇宙意識)と、
唯識(下画像参照)でいう「阿頼耶識(アラヤシキ)」は、ほとんど同じものと考えていい。
そこに個人の過去の行為のデータ(=カルマ)と、仮想世界を作り出すための、
あらゆるデータ(材料)が保存されてる。 つまりこれは「仮想根源意識」と表現できる。
とうぜん「心」やその機能である「認識作用」もそこのデータを使って作り出されていて、
心は作り出されたもの(現れたもの)しか捉える(認識・イメージ・概念化)ことはできない。

「至高のリアリティ(実在、真我、霊魂)」 は作り出されたものではなく、全てがそこから
現れる源泉であってすべての概念を超えているため、心では直接的に捉えることはできず、

言葉で直接表現することもできない。どのように表現しても、ある意味では的外れになるはず。


◆例えるなら、「阿頼耶識」は映画の映写機(とフィルム)で、これが上映してる映画が
表層意識に現れる世界(または人生)、というように  ある意味では  言える(表面上)。
しかしほんとうは阿頼耶識(映写機?)もスクリーン上の映像の一部に過ぎない(笑)。 
その全ての映像がスクリーンから独りでに現れる。そのスクリーンが「至高のリアリティ」で、
それが 認識力現実性 において映像中の人間と接続する一点が「霊魂」であると考えられる。


◆つまり我々が見てる世界は本当は「至高のリアリティ」そのもので、自我の催眠下において
「意識・五感」を通して見たときだけ、それぞれの物や各個人が分離した世界が現れる。

「時間・空間」というのもほんとうは作られた観念・心のイメージだが、催眠下の錯覚
(実在が抜けてる)によって実在するように感じられる。 かんぜんに 心のトリックの世界
これをどう受け取ってもよいのだろうけど、ある意味では人生は、
「 おふざけ神通力の仮想世界を超えていけ!」という神聖なる挑戦状ではないだろうか?


◆そしてこの阿頼耶識から、いわば潜在意識の領域の自我である「末那識(マナシキ)」
が現われる。この識は人間が寝ても覚めても深層でつねに「我、われ」と考えてる、
根源的な自我執着心である。 これが阿頼耶識(=いわば宇宙の根源的な命の流れ)を見て、
それを自分の正体(=真我?)であると誤認して執着・愛着し続けてる(誤認プログラム)。 
これが、表層意識で起こるあらゆる煩悩と、自我の催眠(=自我意識への「私」の同化)、
そして輪廻転生の根本原因であると考えられる。


~ 手 が か り ~

◆仮想世界に現れるすべては実は「至高のリアリティ」そのものだが、それが人間存在に
直接的に投影してる要素は、ある意味では「認識力」と「現実性(≒生命?≒私?)」。

◆人間の「認識作用」は心の機能であり、深層意識が上映してる?映像の一部だが、
「認識力」は本当の意味では心にも深層意識にも属さない。それは霊魂からきてる。
例えば、月が自らの光で世界を見てるとする。しかし、月の光はほんとうは太陽の光である。
ここでは「月=心、太陽=霊魂」。 つまり、霊魂から発現した「認識力」が心に及んで
はじめて我々は「認識作用」という心の機能を使うことができる。

◆もう1つ、「現実性」と書いたが、仮想世界であっても人間はこの世界をリアルに感じる
ものだが、それは厳密には「現在の瞬間」にだけ、感じるのではないだろうか? 
過去のことは脳の記憶としてイメージがあるだけで、本当のリアル感は記憶の中にはないはず。
その「リアル感」は至高のリアリティ(霊魂)から現在の瞬間にだけ、心に投影される。
そして人間は自我の催眠下にあるために「分離の仮想世界」がリアルであると錯覚するけど、
ほんとうは分離はウソ(錯覚)で、この世界が「至高のリアリティ」そのものであり、
そこからリアル感が直接的に投影されるからリアルに感じられる。

つまり人間が「現在の瞬間」にだけ世界に対して感じる、ある独特な「リアル感(親密さ)」
こそが、「真の自己(真の生命)」に近いもの、と言えるだろう。

第九識(阿摩羅識)は日本で後付された概念なので(略)。あえて言えば、ここでいう実在のことになるのかもしれない。

< 唯 識 >


詳しくはこちらのページ(別タブで開く)
ここでは一部紹介します。

ニサルガダッタ・マハラジ

意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超えることが可能なのだ。そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入らない状態にいる。
《「I AM THAT ‐ 私は在る」より》

ラマナ・マハルシ

本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽りの同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。それが誕生と言う連鎖をもたらしたのである。だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおとずれ、唯一永遠の真我に明け渡す時が来るのだ。
《「あるがままに」より》

ルパート・スパイラ

「私は何ものかである」という信念や感情は、無知、つまり、体験の真の性質を無視することを前提として生まれます。これは架空の立場です。
私たちは何ものでもない、つまり物事ではなく、開かれていて、空で、輝く気づきの現存であると
知っている立場は、叡智と啓示の立場です。
そして私たちこそが、目に見えるすべての物事の要素、心、体、世界のすべてのあらわれの要素であると知っている立場は、愛、純粋な親密さの立場であり、ここにおいては内側の自己も、外側の対象物、他者、世界も存在しません。

私たちにはこの三つ、「私は何ものかである」、「私は何ものでもない」、「私はすべてである」という三つの選択肢しかありません。そして、あらゆる瞬間、私たちは選びたい立場を選ぶことができます。選択次第で、私たちの体験は、選んだ立場を反映するようになります。体験は、私たちの立場を裏づけるのです。

《「プレゼンス」より》

東西占星術研究所

http://tozai-astrology.com/contribution/karma01.html
アカルマは、最終的に解脱へと導くカルマである。ここでいう解脱とは、苦しみ多き輪廻(生まれ変わり)の世界から脱却することである。完全に現世を放棄し、行為の果報に対する欲望を完全に滅した状態で、ある行為がなされる場合、それはアカルマとなる。

http://tozai-astrology.com/contribution/karma02.html

偉大なヨーギーはプララブダ・カルマによる苦しみを喜んで受け入れるように忠告する。そして、唯一自由に行動が出来るクリヤマナの領域では、良い行いをなし、慈善をなすように忠告するのである。そして、もしその忠告にしたがって、プララブダ・カルマによる苦を喜んで受け入れることができれば、そのカルマは魂を解脱へと導くアカルマとなる。

※「プララブダ・カルマ」=今生で経験することを運命付けられたカルマ
※「クリヤマナ」=今生で作るカルマ(※見かけ上の自由意志あり)



◆ここまでのことを一言でまとめると、 我 々 は ラ リ っ て る だ け  


仏教と「 至高のリアリティ(実在、真我、霊魂)」

◆一般的に仏教では「霊魂」の存在を否定するが、その根本教理は「輪廻からの解脱」である。
この一見すると不可解な点について、少し掘り下げて考えてみる。
釈迦がアートマン(霊魂)に言及しなかったのはその存在を否定してるのではなく、彼が深層意識
の構造をよく見抜いていて、「個別の私」に執着する自我の心が解脱のじゃまをするのを嫌ったから、
と個人的には考える。また、当時インドで興隆してたバラモン教の思想は、「人間は肉体と霊魂から

なり永遠に輪廻する」というもで、そこでいうアートマン(霊魂)は「自我」に近い意味だったうえ、
「解脱」の概念がなく、過酷なカースト制の原因にもなってた。これに異を唱えたのが釈迦だった。

つまり、元々仏教というのはアンチ・バラモン教としての性質も持ってるわけで、ヴェーダ哲学の
「アートマン(霊魂)」の概念が曲解されて「自我」と混同されて浸透してたために、釈迦は
「諸法無我」と言った(当時の世相を表してる)。「あなたたちがアートマンだと思ってるそれは

アートマンではないですよ」ってこと。 そもそもアートマンは概念化できるようなものではなく、
「輪廻の主体」とも言い切れない(輪廻は幻想の中でアートマンは実在だから)。ある意味では、
「輪廻してるのは幻想の側の想念体」とも「輪廻に主体はない」とも言えるが、だからといって
「輪廻と霊魂に関連性がない」わけでも「霊魂が存在しない」わけでもない、と当サイトは考える。

つまり釈迦の考えは、「アートマン・霊魂のような 観念 にはあまり拘るべきでない」 だったと。

日本で仏教やってる人でも、この根本の時代背景と釈迦仏教の主旨を理解しない人がけっこういる。


◆また釈迦は、アートマン(霊魂)だけでなく「実在の側」についてはあまり言及しなかった。
その理由は主に次の3つであると推測する。

①「至高の実在(リアリティ)」は人間が考える「存在する・存在しない、善・悪」とかそういう
一切の概念を超えているため(概念的でない)、言葉で直接的に説明できるものではない。
仮想プログラムの心のシステムは、概念を超えたものを捉えることはできない。

②ムリに言葉で説明して、心にその観念(イメージ)が入力されてそれに強く執着してしまうと、
解脱の妨げになる恐れがあるから(この弊害は小さいかも)。

③「(偽りの)私という存在性」への執着が輪廻の原因の一つであるため、解脱してない人が、
「私の存在性」と「実在の概念・イメージ」を心の中で結びつけてそこに強く執着してしまえば、
やはり深層意識の誤認プログラムを解除(=解脱)する妨げになるから。
そもそも上記のとおりで、「実在」は概念的ではないので、そこに「私」「存在性」などの
「概念」を安易に結び付けて考えること自体が、ほんとうはナンセンスなんだろうけど。。


<釈迦いわく>

ここにわたしが(いずれとも)断定して説かなかったことは、
断定して説かなかったこととして了解せよ。
またわたしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ・・・
「世界は常住である」などということは、わたくしが断定して説かなかったことである。
何となれば、このことは目的にかなわず、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、
安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならないからである。

しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるか?
「これは苦しみである。」
「これは苦しみの起こる原因である。」
「これは苦しみの消滅である。」
「これは苦しみの消滅に導く道である。」
ということを、わたくしは断定して説いたのである。
これは目的にかない、心の平安、すぐれた英知、
正しい覚り、安らぎのためになるものである。

カッチャーヤナよ、
この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち有と無とである。
もしも人が正しい智慧を以て、世間(世の人々)の現れ出ることを
如実に観ずるならば、世間において無はあり得ない。
また人が正しい智慧を以て、世間の消滅を如実に観ずるならば、
世間において有はあり得ない。

カッチャーヤナよ、
「あらゆるものが有る」というならば、
これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、
これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、
中(道)によって法をとくのである。


◆『 仏教といえば「無我」「無」「空」。死んだら「無」。霊魂はない。輪廻はない。わからない。
あるかもしれない。あると思う。興味ない。』

ここ日本では宗教的なことは自由なので、人それぞれいろいろな考えがあると思う。 
ちなみに、仏教のイメージになってる「無」「空」という概念は主に後世の大乗仏教で
加えられたもので、もともと釈迦が言ったのは、
「五蘊無我(肉体・精神・意識などの人間要素の中にアートマン・霊魂は存在しない)」
「諸法無我(現れた世界の中にアートマン・霊魂は存在しない)」 であることは指摘しておきたい。
なお、宗教・スピ関係で一般的に使われる「無」「空」は、概念が通用せず描写不可能な、
当サイトでいう「至高のリアリティ」「実在」「真我」などの言葉と同義とみてよいと思う。
まあ重要なのは言葉自体ではなく、この分野の全体像を見てその本質・要点を理解してから実践して
いくことではある。 しかしこういう分野では表現の好みが分かれ、言葉の定義の問題もあり、
またこの分野自体が「概念・観念」を超えたものを扱うために、パラドックスを含んでおり、
その本質・要点を理解する過程において非常に誤解が起こりやすい、という点に注意したい。
※本来の大乗仏教の「空」の概念は、縁起の空性(実体がない)のことで上記の意味ではないが、
一般的にそのような解釈が浸透しつつある気がするので、ご理解いただきたい。


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◎『 仮想意識とその中に現れる時間と空間の世界は、=至高のリアリティ ♪ 』

◎『 分離は深層意識の誤認プログラムによる錯覚であり、すべては私たちの至高のリアリティ ♪ 』

◎『 世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり 』(by 聖徳太子)

◎ホトケでないものなど存在しない。成仏とは、ただ錯覚が取り除かれること。
人間は心の深層に汚れと執着があるために正しく認識できてないだけ。